江戸時代に浜松に謳われた俚謡に
お江戸見たくば五社諏訪ごろじお江戸まさりの五社や諏訪
が残っています。
浜松にはお江戸以上に立派な
東海道は江戸時代、上の幕末に描かれた
遠江州敷智郡浜松御城下略絵図
に分明に見て取れるように城下町浜松を東西に真っ直ぐに突っ切るのではなく中心地たる宿場町では南北に方向を転じ一帯でクランク状を成していました。
駿河方面、東より西へ向かうに天竜川を渡り、馬込川を渡って浜松宿に入り、
浜松城の大手門前で一旦南に折れ常寒山の東を南下して大地の切れた所で再び西に向いて三河方面へ向かったのでした。
略絵図に於いては右上の田町から神明町を通り
中央上の浜松城大手門前で左、即ち下方に折れ、連尺町を通るに右手に五社、諏訪神社を見上げていた、と言う塩梅です。
連尺町の通りを良く見れば鳥居が2つ描かれ一本西に利町と記された道が縦に走るのを突っ切って更に左へと続くのが2本、両社其々の参道で
神社前の鳥居迄繋がっており、其の先には五社神社は五社、諏訪神社はスハと表記されているのが見て取れるでしょう。
東海道を浜松城大手門から南下する際には右手であればまた逆も然り、東海道を西から来て浜松城大手門に向かい北上する際には左手に
両社拝殿
現在の姿
現在浜松市民にも五社神社で通用しますから其の鳥居や拝殿の神額を見れば其処には 五社神社と諏訪神社が併記されているのを見て 経緯を知らなければ不思議に思った向きもあるかも知れません。 神額は合祀によるのでしたが実は現在の五社神社の建つ社殿域は元五社神社のもので五社神社として市民に通用するのも無理からぬものです。
では並び建っていた諏訪神社は何処に在ったのでしょうか。 其れは現在のはまホールの通称で呼ばれる浜松市教育文化会館の建つ位置に建っていました。 会館前の広場も含め五社公園への陸橋を渡る手前迄が諏訪神社の社殿域でした。 因みに陸橋下から現在の五社神社前を通り浜松城方面に向かう道は 五社小路 と呼ばれています。
はまホールは戦後暫くして浜松市民に用立つべく 浜松市民会館 として開館し平成に入ってからは浜松市教育文化会館、通称はまホールと改称されましたが 其れも今年平成27年3月31日を以て老朽化を理由に休館となり現在は扉が閉鎖されています。
両社並び建った頃には社殿の様式は共に吾人が思い浮かべる神社建築らしい建築でしたが
現在の五社神社を正面から臨めば銅板葺き屋根の緑に朱塗りの柱と白壁の対比、
要所要所の金細工の装飾金具も鮮やかな彩で入母屋の平安様式が見て取れる鉄筋コンクリート造りの拝殿が見られ
此の平安神宮に代表される平安様式は明治以降、近年に入ってからの
平安期の御所などを
合祀の経緯
明治以降
しかし周知の如く昭和の10年代は日本が支那事変から第二次世界大戦へと突き進む世相でもありました。
明治維新以降工業都市として名乗りを挙げればなお
浜松も戦況の悪化の
徳川政権の勢威を発揚するような社殿はしかし大政奉還後の一地方の財政には負担が重すぎたのでしょう。 戦後間も無くに国宝指定も解除された両社復興の費用が国庫から捻出されるのも無理な話でした。 此のような経済状況からも両社を再び並び建たせるには不可能となったのも合祀には影響があったのかも知れません。 但し両社は寛永期に江戸幕府により並び立っての最初より明治の困窮から大正の国宝指定に至る迄同様の機能を果たして来たのも確かです。 国宝指定、戦災消失以前、明治の困窮期、26(1893)年には敷智郡浜松町議会の決議で両社の境内が合一して公園に充用され 五社諏訪両社保存会の組織されるに至って両社は一体として営まれたのも合祀への抵抗感の軽減に寄与したでしょう。 奉賛会と中心とした関係者の尽力もあって昭和24(1949)年には早くも仮殿が竣工、 昭和35(1960)年に合祀され五社神社、諏訪神社と併記されるようになりました。 昭和38(1963)年には建設が開始され昭和57(1982)年秋には本殿と拝殿が竣工、同年10月1日には遷座、 平成元(1989)年には今見える狛犬とアルミ製の大鳥居の設置、平成4(1992)年に復興工事は完成し現在の姿となったのです。
五社神社
五社神社の由緒に付いては一般には江戸に入ってから寛政年間に記された
五社神社創建時の立地は現在の常寒山にあらずして曳馬古城内、即ち現在の元城町東照宮の辺りと言われています。 創建年代は永正年間と言いますから明応から文亀を経て数年後には今川の力を背景に 袋井から浜松まで進出した久能氏が曳馬古城を勢力下に治めて五社大明神を勧請したものと考えられます。 元亀元(1570)年には徳川家康が曳馬城に入城しており、其の際、若しくは曳馬古城を取り込む形で浜松城の拡張整備をする際に 現在の元城小学校のプールの辺り、当時の本丸と二之丸の間の北、曳馬古城からは西の辺りに遷座せられたようであるのは 浜松城古図 に五社神社常寒山遷座後の 五社松 の図が描かれている[※2] ことから分かります。 但し五社松の由来は 柏崎物語 に依拠し此れは徳川第10代将軍 家治 の頃の写本が残るだけですので些か信憑性に欠ける嫌いもあるのは否めない[※1] ようです。
戦乱に明け暮れる家康の指示で五社神社が常寒山に遷座せしめられたのは天正8(1580)年、 浜松城の度重なる拡張工事の中に於いてでしたが其の前年天正7(1579)年4月7日に誕生した 徳川秀忠 の産土神と位置付けられてもおり規模を拡張する為でもあったでしょう、 秀忠の生まれた当時は家康の長子 信康 の痛ましい生害事件と重なり如何ともし難い状況から徳川の嫡子として運命付けられた秀忠の産土神たる格式を持たせる意味もありました。
遷座地の常寒山の選定の理由は判然しませんが 天正8(1580)年同時に秀忠の生母 西郷局 を開基として五社神社の北に隣接して今も続く 心造寺 が創建されており城南に広く用意された敷地は孰れにせよ徳川家世継ぎの秀忠への家康の期待が窺えるものでしょう。 併せて家康は 栃木史学 八号掲載の米田氏の論に依れば永禄9(1566)年の従五位上に叙された時から天正12(1584)年に参議に任じられた時まで、 即ち此の頃には本姓を藤原と称しているのが朝廷からの叙位任官文書にも見えて 藤原氏の氏神が春日大社である由縁もあっただろう[※1] と考えられています。 後年街道筋から見上げる位置に最高権力者の産土神を立地させる政治的な配慮の萌芽も此の時にあるのかも知れません。 以降五社神社は昭和に合祀され平成の今に至るも同じ地に在り続けています。
五社神社の神主は森家が世襲しました。 家康の浜松入城後には五社神社神主 森彦蔵 が祈祷の為陣場や鷹狩りに供奉して拝領した槍を所持していた旨 県社五社神社創建由緒沿革之記 に見え、秀忠出生時には彦蔵妻が乳母として召し出され[※1] てもいます。 此の彦蔵妻は後に記す諏訪神社神官杉浦家の血筋の可能性もあるようで、 であれば両社の徳川家に於ける位置の確立された時期には 森、杉浦両神職家は姻戚関係にあったこととなります。
五社神社には鳥居を潜った社務所前に賀茂真淵が若年時の学父と敬慕する
明治維新後、五社神社は近代社格制度に於いて
県社
に定められました。
神官は森家の世襲から吉田家の世襲へと引き継がれましたが、
其れは此の近代社格制度の指定時のこととされています。
2015年11月6日には折良く訪れた浜松市天王町の式内社たる
諏訪神社
浜松は往古より天竜川西岸に位置し大河流域の表裏一体の恵と厄災と共にありました。
従って其の祈りが天竜川水源の諏訪大社信仰に結び付くのは必然だったでしょう、流域には多くの諏訪神社が祀られ、
また其の多くが河岸に漂着した諏訪明神神札を祭神に神社創建の由緒としています。
戦前迄五社神社の南隣に位置した諏訪神社も元は其の一つとして中島一丁目、
東海道新幹線と馬込川の交わる東南に創建されました。
此処に社殿を建てたのは
今は遷座された其の跡地には六本の松が植えられたとされますから何某か五社松と通ずるものが感じられます。 此の松を明治の初め頃切り倒した所村中に熱病が蔓延し以来人の近付かぬ荒地となりましたが 大正2(1913)年御大典記念に地元青年団が松を植え 中島六本松の諏訪神社は地元の方々に 元宮 とも呼ばれ現在に至っています。
諏訪神社の神職大祝は杉浦家に世襲されました。 杉浦氏は三河の出身で松平氏の家臣で桶狭間の戦いでは織田と戦い落命した一族もありますが 一向宗に走る者、浅井長政に仕官する者もあり小勢力の戦国に於ける懸命な生き残り策が窺えるもので、 中に桶狭間以前、即ち未だ浜松が今川勢力下にある頃に一族の 杉浦信定 が渡り諏訪神社の大祝となっています。 従って浜松入城した家康に従うのですが興味深いことに元亀2(1571)年には 神職を兄の孫、 家直 に譲り実子 家信 と共に石山本願寺に渡り織田軍と戦ってもいます。 また社殿を建てた前田家と杉浦家との関係は前田信利の娘婿を杉浦信定とする説など諸説あります[※3] が判然しません。 ともあれ諏訪神社大祝職は杉浦家直から連綿と杉浦家に継承されるのでした。
弘治2(1556)年に中島六本松諏訪神社は大祝
杉浦信定
が社殿を曳馬城大手前に遷したとされますが、
中島一丁目六本松より東南に直線距離で凡そ400メートルほどの中島二丁目に
此れも六本松諏訪神社を同じ弘治2(1556)年に遷座したと伝わる諏訪神社が在ります。
詳しくは知り得ませんでしたが探れば何某かの物語が其処にあるのかも知れません。
弘治2(1556)年は桶狭間の戦いの未だ4年前、
曳馬城城主は未だ今川方の
由緒について言えば18世紀半ば頃の成立とされる
浜松諏訪大明神略記
には延暦10(791)年に
五社神社と同様に諏訪神社も秀忠の産土神とされましたが
秀忠誕生時は家康は藤原を称しており源氏に鞍替えするのは未だ数年後です。
従って中島に根を張り武辺にも働いた元三河衆の杉浦氏を取り込む意味があったのかも知れませんが
徳川が源氏の棟梁を称すとなれば話は変わって来たでしょう。
また慶長10(1605)年には秀忠が将軍宣下され二代将軍家の産土神たる両社は
諏訪神社大祝杉浦家からは
寛永期の完成
冒頭の俚謡に謳われた街道から両社を仰ぎ見る形が整ったのは寛永期、三代将軍家光の命によってでした。
元和9(1623)年家光が将軍宣下を受け徳川政権は揺るぎない地位を確立します。
五社神社と諏訪神社の意味も変容して来ました。
唯に徳川宗家の崇拝を受ける一地方の産土神に留まらず天下人の守護神たりて徳川公儀発揚の宿命を帯びたのです。
寛永5(1628)年には大祝杉浦家に時の浜松藩主
家光は寛永11(1634)年の上洛時自ら参詣し五社、諏訪両社に社領200石を其々加増し同時に両社社殿の大造営を命じました。 此の時諏訪神社社殿の建つ位置は杉山から五社神社の南隣へと遷座が決定せられたものとされます。 五社、諏訪神社寛永造営時の配置推定図[※1]を見れば 五社神社は三段、諏訪神社は二段となって截然と社殿領域は分割されていますが 南北に隙間なく東海道、即ち東方を向いて整然と並び建つものとなっています。 東海道を往来する人々から西方に仰ぎ見られる存在となるべく 諏訪神社の社殿を杉山から五社小路を越えて五社神社と相隣りて並び建つように社殿位置は企図されたのでした。
造営に要した期間は3年とも4年とも言われるのは何を以て完成とするかに由って異同が生じるからで本稿
合祀の経緯
にも昭和の復興に於いてさえ昭和38(1963)年から平成4(1992)年と長期間を要せば寛永の造営時にも同様であったのだと思われます。
当初普請の主となった浜松藩主は高力忠房にて今も残る手水鉢には
寛永十五戊寅年五月吉日
に寄進された旨刻まれており(傍らの案内板には
以降両社宮司家などの尽力を以て江戸期を通じて其の威容を誇り、 明治維新後の困窮期を乗り越え往時に復旧のなった両社も まことに残念ながら太平洋戦争によって灰燼に帰してしまい 浜松からは二つの国宝が同時に失われてしまいました。
数奇な運命
大祝杉浦家邸宅の跡地は現在五社公園となっています。
公園敷地内には
戊辰之役報国隊記念碑
と刻まれた石碑が建っています。
報国隊とは即ち
遠州報国隊
のことにて
慶応4(1868)年2月に遠州の浜松、磐田地方の神官層が主体となって倒幕を目的として組織された
幕末尊皇攘夷の風は遠州にも吹き荒れました。
其の中心となり急先鋒となったのは遠州地方の神官達でした。
慶応4(1868)年に発布された
家康が嫡子信康を失う直前に生まれ後継として大いに期待を掛ける三男秀忠には如何様な思いがあったでしょう、
産土神として両社を引き上げ
其の意を深く汲み取った秀忠の両社に対する尊崇は否応にも高まり、
そして其の子家光は遂に父親の産土神を祖父家康の東照宮に比すべき程に引き上げました。
以降江戸幕府に於いて特別な社位を確立した両社は度々の社殿維持を公儀で以て賄います。
大掛かりな修繕に当たっては両社神官は陳情に江戸表を訪れる必要がありました。
杉浦国頭は江戸に於いて
報国隊之碑の裏最上段には戊辰戦争東征軍の指揮官の一人 大村益次郎 の沙汰状の復刻されており[※5] 白虎隊 で有名な会津戦争の終結を以て東北の平定もなり、帰国及び引続き奉公の指示がなされているものです。 大村益次郎は靖国神社の前身となる 東京招魂社 の肝煎りでもありましたが、前述の大歳神社石津宮司のお話に此の東京招魂社は当初、 静岡県の官軍三隊、即ち遠州報国隊、此の結成に促された 駿州赤心隊 、 伊豆伊吹隊 の招魂社として 徳川の裏切り者として暗殺され故郷に帰れなかった者達の魂を祀る なる義を以て開かれた旨、伝え聞かれているそうです。 遠州報国隊を江戸に弔う社殿は勅命に靖国神社となり様々な意味付けのなされ現在に至っています。 其の靖国神社の宮司を現在務められるのは徳川氏の系譜を継ぐ方だということです。
戦後昭和の合祀及び社殿復興に中心的役割を果たした奉賛会の名誉会長は
徳川宗家十八代当主の徳川
追記(2017年9月27日)
2017年9月17日に本稿のプリントアウトを持参して再び五社神社に詣でました処、 神職の方々にお話を聞くなどして知り得た事項も幾許かありましたので此処に追記します。 先ず手水鉢の案内板に於ける文字間違いについては其の旨申し上げましたので近々修正されるものと思います。 次に孰れ稿を起こすべく目論んでいる処の石垣についてお尋ねすると 神職の一方が写真のコピーを取り出して見せてくれました。 昭和28年(1953)頃の諏訪神社の仮殿ではないかとされる此の写真は 其の通りであれば昭和35(1960)年に両社が合祀される以前の昭和24(1949)年に竣工した仮殿の内にも諏訪神社のもの、 と大変貴重な資料となり得るものですが 実際は孰れの機会に孰れを撮ったものか判然せず 其れを尋ねるのに五社神社に齎されたもののようです。 持ち主が分からず許可も取れませんので神職の前で撮影はしましたが此処での掲載は控えておきます。 また瓜二つの手水鉢の存在を尋ねると確かに保存はされているが公開は残念ながら叶わない様子です。 然う斯うしている内に社務所の奥から吉田宮司がお出まし下さいました。 郷土史を研究している旨申し上げ 社務所の本棚いっぱいの書籍を眺めつつ調べ上げる段階で分かっていた筈ながら さぞかし立派な文書が残されているのですね、と失言すると 宮司はいやいや戦災で全て燃えてしまいましたので一般書籍ばかりですよ、 色々お調べのようですがそんな訳で恥ずかしながら古いことは良く分からないんです、 と謙虚なお人柄が窺い知れるお返事を下さいました。 例えば石垣の伝説についても代々の口承などはなく一般の方々と同じく郷土史関連本などから知り得る処と変わらない旨仰います。 社殿について吉田宮司が随分力をお尽くしになられたそうでと 流れの中で知り得た処をお話すれば先代がかなり苦労を重ねられた旨お話下さいました。 また現職も其の際は浄財の勧進に各地をお供されて廻られたのを懐かしそうに話されたのが印象に残っています。 さて此処ぞとばかりもう一度諏訪神社に寄進された方の手水鉢についてお願いしようとお尋ねすると 此方のお願いには写真撮影とインターネットでの公開の許可が含まれておりますから 矢張りものなどが入っていてお見せするのは難しい状態とのことで、 またもや失礼ながらなるほどゴミ置きのような感じになってしまっているのですね、と言い放ってしまったのですが 決して其のような扱いはしていないが事情があってお見せできないのですよ、と優しく仰いました。 此のような話の合間に本稿のプリントアウトなど出して説明など申し上げると 有難くもいただけますかとのお申し出に勿論です、と住所氏名を其の場で最後のページに書き込んでお渡ししました。 お渡しするにも図々しく森家から吉田家に宮司職が移ったのは維新後県社に列した頃で間違いないでしょうか、 其の頃の事情など教えて下さいますでしょうか、などと間髪置かずお尋ねすると まあまあと宥められながらもとても奥ゆかしいお人柄で なかなか自分の知り得ないことなど書かれると困ってしまうなあと苦笑しつつ仰いながら其の場で本稿をご覧になられたものです。 暫くご覧になっていると後段の俚謡に此れを聞いたと言うのは自分ではないので現在のと言うのは違いますよ、とお教え下さいました。 本追記と共に本稿に取り消し線を引いて現在を先代に直した処です。 併せて本稿執筆の際にも訝しがられた後段の俚謡は矢張り現在の吉田宮司も聞かれたことがないそうで 此れにて国立博物館の書籍の間違いがはっきりしたもの[※1] です。 恐らくは大量の史料の整理の中に勘違いで前段の俚謡の上の句と石垣に関する俚謡の下の句が入り混じってしまったのでしょう。 一応プリントアウトの最後には署名と連絡先を書き込みましたので 怪しからん部分は直しますからご遠慮なくご指摘くださいと申し上げて 端無くも数十分ほどに及んでしまった歓談を辞しました。 どこの馬の骨とも分からぬ人物の突然の訪問に丁寧に対応して下さりとても感謝しております。
梶の葉紋は足が4本数えられるので上諏訪社に所縁と考えられ、また下がり藤紋は藤原氏氏神の春日大社の神紋でもある
- 五社神社・諏訪神社の歴史と建築 調査研究報告書五社神社・諏訪神社社殿等修理関係資料 本文篇(東京国立博物館/編・東京美術刊)
- 五社神社・諏訪神社の歴史と建築 調査研究報告書五社神社・諏訪神社社殿等修理関係資料 図版篇(東京国立博物館/編・東京美術刊)
- 五社神社・諏訪神社の歴史展:浜松読書文化協力会・浜松市立中央図書館/編(浜松読書文化協力会刊:2003.7出版)
- 五社神社諏訪神社御社殿復興工事竣工記念誌(五社神社諏訪神社社務所平成5年3月15日発行)
- 浜松市の石造文化財(浜松市石造文化財調査会編2001年発行)
- 賀茂真淵 生涯と業績(寺田泰政著/浜松史跡調査顕彰会1979出版)
- 日本史再検証名家の「その後」(監修森岡浩/別冊宝島2586ムック)
- 信長の戦国軍事学~書評2~織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日 )
- 桶狭間現地を訪れ信長公記桶狭間の戦いを再読す(2017年6月24日)
- 杉浦国頭の書き残した浜松の二つのうとう坂(2017年4月29日)