浜松の合祀された五社神社と諏訪神社

江戸時代に浜松に謳われた俚謡に お江戸見たくば五社諏訪ごろじお江戸まさりの五社や諏訪 が残っています。 浜松にはお江戸以上に立派な五社ごしゃ神社や 諏訪すわ神社があるのだから 態々わざわざ出掛けるまでもあるまいと謳ったものです。 其の立派な五社神社と諏訪神社の社殿が 浜松城天守台から直線距離で凡そ七百メートルほど南方の 常寒山とこさむやま並び建っていたのを知る浜松市民もどうも少なくなったようで 取材の為に幾人いくたりかに尋ねるに此の旨話せば驚かれることも増えましたので 些か危機感を覚えもし本稿に記し置こうと目論むものです。 本来は此の五社神社の石垣の伝説についてものしようと思ったのですが 其れ以前に両社の合祀を優先させたく思いますので当該伝説については稿を改めて記す予定でいます。

遠江州敷智郡浜松御城下略絵図一部拡大図(2017年8月23日使用許可申請 ※社団法人浜松史跡調査顕彰会専門委員会により企画発行された江戸時代末の浜松城下の略図を浜松市立中央図書館が蔵し原寸複製されたものを許可を得て撮影掲載しています。当該図の無断使用は禁じられています。使用する際には浜松市立中央図書館の許可が必要です。)
遠江州敷智郡浜松御城下略絵図一部拡大図(2017年8月23日使用許可申請 ※社団法人浜松史跡調査顕彰会専門委員会により企画発行された江戸時代末の浜松城下の略図を浜松市立中央図書館が蔵し原寸複製されたものを許可を得て撮影掲載しています。当該図の無断使用は禁じられています。使用する際には浜松市立中央図書館の許可が必要です。)

東海道は江戸時代、上の幕末に描かれた 遠江州敷智郡浜松御城下略絵図 に分明に見て取れるように城下町浜松を東西に真っ直ぐに突っ切るのではなく中心地たる宿場町では南北に方向を転じ一帯でクランク状を成していました。 駿河方面、東より西へ向かうに天竜川を渡り、馬込川を渡って浜松宿に入り、 浜松城の大手門前で一旦南に折れ常寒山の東を南下して大地の切れた所で再び西に向いて三河方面へ向かったのでした。 略絵図に於いては右上の田町から神明町を通り 中央上の浜松城大手門前で左、即ち下方に折れ、連尺町を通るに右手に五社、諏訪神社を見上げていた、と言う塩梅です。 連尺町の通りを良く見れば鳥居が2つ描かれ一本西に利町と記された道が縦に走るのを突っ切って更に左へと続くのが2本、両社其々の参道で 神社前の鳥居迄繋がっており、其の先には五社神社は五社、諏訪神社はスハと表記されているのが見て取れるでしょう。 東海道を浜松城大手門から南下する際には右手であればまた逆も然り、東海道を西から来て浜松城大手門に向かい北上する際には左手に 両社拝殿向拝こうはい唐破風からはふを構え、 五社神社は入母屋造いりもやづくりの、 諏訪神社は些か異例ながらも流造ながれづくりの本殿へと連なる 荘厳な権現造ごんげんづくり社殿が見上げられたのです。 斯くて上記俚謡は謳われたものでしょう。

連尺交差点を少し北に入った辺りの浜松城大手門跡で写真では左手前は浜松城内となり交差点を左に行けば西方田町方面、奥の南方連尺方面に進めば五社諏訪神社が右手に建つ(2017年8月23日撮影)
連尺交差点を少し北に入った辺りの浜松城大手門跡で写真では左手前は浜松城内となり交差点を左に行けば西方田町方面、奥の南方連尺方面に進めば五社諏訪神社が右手参道を上った所に建つ(2017年8月23日撮影)

現在の姿

五社諏訪併記された鳥居に架かる神額(2015年12月24日撮影)
五社諏訪併記された鳥居に架かる神額(2015年12月24日撮影)

現在浜松市民にも五社神社で通用しますから其の鳥居や拝殿の神額を見れば其処には 五社神社と諏訪神社が併記されているのを見て 経緯を知らなければ不思議に思った向きもあるかも知れません。 神額は合祀によるのでしたが実は現在の五社神社の建つ社殿域は元五社神社のもので五社神社として市民に通用するのも無理からぬものです。

では並び建っていた諏訪神社は何処に在ったのでしょうか。 其れは現在のはまホールの通称で呼ばれる浜松市教育文化会館の建つ位置に建っていました。 会館前の広場も含め五社公園への陸橋を渡る手前迄が諏訪神社の社殿域でした。 因みに陸橋下から現在の五社神社前を通り浜松城方面に向かう道は 五社小路 と呼ばれています。

はまホールは戦後暫くして浜松市民に用立つべく 浜松市民会館 として開館し平成に入ってからは浜松市教育文化会館、通称はまホールと改称されましたが 其れも今年平成27年3月31日を以て老朽化を理由に休館となり現在は扉が閉鎖されています。

諏訪神社跡地に建つ閉鎖された現在のはまホール(2017年8月23日撮影)
諏訪神社跡地に建つ閉鎖された現在のはまホール(2017年8月23日撮影)

両社並び建った頃には社殿の様式は共に吾人が思い浮かべる神社建築らしい建築でしたが 現在の五社神社を正面から臨めば銅板葺き屋根の緑に朱塗りの柱と白壁の対比、 要所要所の金細工の装飾金具も鮮やかな彩で入母屋の平安様式が見て取れる鉄筋コンクリート造りの拝殿が見られ 此の平安神宮に代表される平安様式は明治以降、近年に入ってからの 平安期の御所などをなぞらえた意匠であるようです。

合祀の経緯

明治以降 上知令あげちれい などに経済的に窮地に瀕した両社でしたが 大正3年(1914)年に五社神社社殿が今言う国宝たる特別保護建造物に指定され調査の後 昭和11(1936)年から昭和の大修理がなされ昭和13(1938)年大晦日に竣工、 此れに先立つ夏、8月26日には諏訪神社も国宝指定され昭和14(1939)年正月、 即ち五社神社竣工直後から修理が開始され昭和20(1945)年正月に竣工し往時の輝きを取り戻したのでした。 因みに此の大修理時には基本的には寛永期の意匠を復旧するべく実施されたのですが 屋根は杮葺こけらぶきから銅板葺きに変更され 基礎など一部にはコンクリートが使用され現代の平安様式の其れに受け継がれたと言えなくもありません。

しかし周知の如く昭和の10年代は日本が支那事変から第二次世界大戦へと突き進む世相でもありました。 明治維新以降工業都市として名乗りを挙げればなお 浜松も戦況の悪化の爪牙そうがから逃れる術はありませんでした。 昭和20(1945)年6月18日、 浜松大空襲 です。 両社並び立って盛時の壮麗な社殿を取り戻したのも束の間、永遠に常寒山上から失われてしまったのです。 昭和24(1949)年両社殿の国宝指定は解除されました。

徳川政権の勢威を発揚するような社殿はしかし大政奉還後の一地方の財政には負担が重すぎたのでしょう。 戦後間も無くに国宝指定も解除された両社復興の費用が国庫から捻出されるのも無理な話でした。 此のような経済状況からも両社を再び並び建たせるには不可能となったのも合祀には影響があったのかも知れません。 但し両社は寛永期に江戸幕府により並び立っての最初より明治の困窮から大正の国宝指定に至る迄同様の機能を果たして来たのも確かです。 国宝指定、戦災消失以前、明治の困窮期、26(1893)年には敷智郡浜松町議会の決議で両社の境内が合一して公園に充用され 五社諏訪両社保存会の組織されるに至って両社は一体として営まれたのも合祀への抵抗感の軽減に寄与したでしょう。 奉賛会と中心とした関係者の尽力もあって昭和24(1949)年には早くも仮殿が竣工、 昭和35(1960)年に合祀され五社神社、諏訪神社と併記されるようになりました。 昭和38(1963)年には建設が開始され昭和57(1982)年秋には本殿と拝殿が竣工、同年10月1日には遷座、 平成元(1989)年には今見える狛犬とアルミ製の大鳥居の設置、平成4(1992)年に復興工事は完成し現在の姿となったのです。

入母屋朱塗り平安様式鉄筋コンクリート造りの現在の拝殿(2015年12月24日撮影)
入母屋朱塗り平安様式鉄筋コンクリート造りの現在の拝殿(2015年12月24日撮影)

五社神社

五社神社の由緒に付いては一般には江戸に入ってから寛政年間に記された 東海道名所図会とうかいどうめいしょずえにある記載を採ったもので 久能佐渡守宗隆くのうさどのかみむねたか が春日大明神を勧請し創建したとされます。 久野くのう氏は遠江の国人であり宗隆は 15世紀末から16世紀初頭に掛けての明応年間には今川氏の尖兵として袋井市に 久能城くのうじょうを築城した其の人です。 久能氏は桶狭間の戦い[K1・2]で多くの一族を失い以降今川を見限り徳川に転じており 拠る久能城は小城ながら其の孫久能三郎左衛門宗能むねよしの時 三方ヶ原合戦に赴く武田信玄の率いる大軍を斥ぞけもしています。

袋井市久能城本丸跡(2016年10月15日撮影)
袋井市久能城本丸跡(2016年10月15日撮影)

五社神社創建時の立地は現在の常寒山にあらずして曳馬古城内、即ち現在の元城町東照宮の辺りと言われています。 創建年代は永正年間と言いますから明応から文亀を経て数年後には今川の力を背景に 袋井から浜松まで進出した久能氏が曳馬古城を勢力下に治めて五社大明神を勧請したものと考えられます。 元亀元(1570)年には徳川家康が曳馬城に入城しており、其の際、若しくは曳馬古城を取り込む形で浜松城の拡張整備をする際に 現在の元城小学校のプールの辺り、当時の本丸と二之丸の間の北、曳馬古城からは西の辺りに遷座せられたようであるのは 浜松城古図 に五社神社常寒山遷座後の 五社松 の図が描かれている[※2] ことから分かります。 但し五社松の由来は 柏崎物語 に依拠し此れは徳川第10代将軍 家治 の頃の写本が残るだけですので些か信憑性に欠ける嫌いもあるのは否めない[※1] ようです。

元城町東照宮境内から浜松城公園駐車場を越えて浜松城天守を望む、曳馬古城を取り込む形で浜松城は大きく拡張されたのが分かる(2015年12月12日撮影)
元城町東照宮境内から浜松城公園駐車場を越えて浜松城天守を望む、曳馬古城を取り込む形で浜松城は大きく拡張されたのが分かる(2015年12月12日撮影)

戦乱に明け暮れる家康の指示で五社神社が常寒山に遷座せしめられたのは天正8(1580)年、 浜松城の度重なる拡張工事の中に於いてでしたが其の前年天正7(1579)年4月7日に誕生した 徳川秀忠 の産土神と位置付けられてもおり規模を拡張する為でもあったでしょう、 秀忠の生まれた当時は家康の長子 信康 の痛ましい生害事件と重なり如何ともし難い状況から徳川の嫡子として運命付けられた秀忠の産土神たる格式を持たせる意味もありました。

遷座地の常寒山の選定の理由は判然しませんが 天正8(1580)年同時に秀忠の生母 西郷局 を開基として五社神社の北に隣接して今も続く 心造寺 が創建されており城南に広く用意された敷地は孰れにせよ徳川家世継ぎの秀忠への家康の期待が窺えるものでしょう。 併せて家康は 栃木史学 八号掲載の米田氏の論に依れば永禄9(1566)年の従五位上に叙された時から天正12(1584)年に参議に任じられた時まで、 即ち此の頃には本姓を藤原と称しているのが朝廷からの叙位任官文書にも見えて 藤原氏の氏神が春日大社である由縁もあっただろう[※1] と考えられています。 後年街道筋から見上げる位置に最高権力者の産土神を立地させる政治的な配慮の萌芽も此の時にあるのかも知れません。 以降五社神社は昭和に合祀され平成の今に至るも同じ地に在り続けています。

賀茂真淵による森暉昌顕彰光海霊神碑(2017年6月26日撮影)
賀茂真淵による森暉昌顕彰光海霊神碑(2017年6月26日撮影)

五社神社の神主は森家が世襲しました。 家康の浜松入城後には五社神社神主 森彦蔵 が祈祷の為陣場や鷹狩りに供奉して拝領した槍を所持していた旨 県社五社神社創建由緒沿革之記 に見え、秀忠出生時には彦蔵妻が乳母として召し出され[※1] てもいます。 此の彦蔵妻は後に記す諏訪神社神官杉浦家の血筋の可能性もあるようで、 であれば両社の徳川家に於ける位置の確立された時期には 森、杉浦両神職家は姻戚関係にあったこととなります。

五社神社には鳥居を潜った社務所前に賀茂真淵が若年時の学父と敬慕する 森暉昌もりてるまさ の顕彰を漢文体でものした 光海霊神うなてりのみたまの碑が残ります。 五社神社の神主森暉昌は貞享2(1685)年生まれで宝暦2(1752)年に没していますので 賀茂真淵より一回り年長で真淵に先立つこと17年でした。 顕彰文は光海霊神碑の上部が損壊していますが東海道名所図会に見られ、 また破損前の拓本も何処いずこかに保管されているものと聞き及びます。 此の石碑の上部が失われているのは正しく五社、諏訪両社社殿を灰燼に期さしめた劫火に因るもので 森家の浜松に果たした役割と共に第二次世界大戦終戦間際の浜松大空襲の苛烈さを今に伝えてもいます。

明治維新後、五社神社は近代社格制度に於いて 県社 に定められました。 神官は森家の世襲から吉田家の世襲へと引き継がれましたが、 其れは此の近代社格制度の指定時のこととされています。 2015年11月6日には折良く訪れた浜松市天王町の式内社たる 大歳おおとし神社 の石津宮司にお話をお伺いできました。 其れに依れば大歳神社に連綿たる世襲を継続せしめたのは全く石津宮司の御祖父のご判断に依るものだそうで 何となれば社格決定時に御祖父は官幣社などに必須となる異動などの面倒を厭い村社を希望したそうで 村社では経済的な自立の求められる分独立独歩の自治権を有せたそうなのです。 其のお話しの際、例として挙げられたのが五社神社で人事について中央からのお達しのあって森家一族の世襲が途切れてしまったが 大歳神社では変わらず藤原貴族の血を継ぐ当家が宮司職を務めるものであるとします。 而してお話し下さった石津宮司は第25代であり其の系図を保たしめた御祖父は第23代に当たられるのだそうです。 大歳神社は村社ながらも石津宮司は神職に於ける明階めいかいなる 別表神社べっぴょうじんじゃの宮司たるに必要な階位をお持ちで 遠州には五社神社宮司と唯お二人なのだそうです。 従って神葬祭しんそうさいなどで 五社神社との関係も浅からぬ旨のお話もありました。 現宮司家となった吉田家は昭和となって五社、諏訪神社の窮境の中に社殿の復興に尽力されました。 現在先代[追記参照]の吉田宮司は冒頭の俚謡とは些か異なる お江戸見たくば五社諏訪ごろじせめてなりたや切石に を先代からの口承として聞かれたとされています[※1]五社神社諏訪神社御社殿復興工事竣工記念誌 の謝辞に於いては冒頭と同じ口承が記載[※4] されています。[追記参照]

諏訪神社

浜松は往古より天竜川西岸に位置し大河流域の表裏一体の恵と厄災と共にありました。 従って其の祈りが天竜川水源の諏訪大社信仰に結び付くのは必然だったでしょう、流域には多くの諏訪神社が祀られ、 また其の多くが河岸に漂着した諏訪明神神札を祭神に神社創建の由緒としています。 戦前迄五社神社の南隣に位置した諏訪神社も元は其の一つとして中島一丁目、 東海道新幹線と馬込川の交わる東南に創建されました。 此処に社殿を建てたのは大祝おおはふり 前田信利 で享徳3(1454)年のこと[※3] とされています。

元宮諏訪神社六本松より社殿を見る(2017年7月29日撮影)
元宮諏訪神社六本松より社殿を見る(2017年7月29日撮影)

今は遷座された其の跡地には六本の松が植えられたとされますから何某か五社松と通ずるものが感じられます。 此の松を明治の初め頃切り倒した所村中に熱病が蔓延し以来人の近付かぬ荒地となりましたが 大正2(1913)年御大典記念に地元青年団が松を植え 中島六本松の諏訪神社は地元の方々に 元宮 とも呼ばれ現在に至っています。

諏訪神社の神職大祝は杉浦家に世襲されました。 杉浦氏は三河の出身で松平氏の家臣で桶狭間の戦いでは織田と戦い落命した一族もありますが 一向宗に走る者、浅井長政に仕官する者もあり小勢力の戦国に於ける懸命な生き残り策が窺えるもので、 中に桶狭間以前、即ち未だ浜松が今川勢力下にある頃に一族の 杉浦信定 が渡り諏訪神社の大祝となっています。 従って浜松入城した家康に従うのですが興味深いことに元亀2(1571)年には 神職を兄の孫、 家直 に譲り実子 家信 と共に石山本願寺に渡り織田軍と戦ってもいます。 また社殿を建てた前田家と杉浦家との関係は前田信利の娘婿を杉浦信定とする説など諸説あります[※3] が判然しません。 ともあれ諏訪神社大祝職は杉浦家直から連綿と杉浦家に継承されるのでした。

中島二丁目諏訪神社の木製鳥居(2017年7月29日撮影)
中島二丁目諏訪神社の木製鳥居(2017年7月29日撮影)

弘治2(1556)年に中島六本松諏訪神社は大祝 杉浦信定 が社殿を曳馬城大手前に遷したとされますが、 中島一丁目六本松より東南に直線距離で凡そ400メートルほどの中島二丁目に 此れも六本松諏訪神社を同じ弘治2(1556)年に遷座したと伝わる諏訪神社が在ります。 詳しくは知り得ませんでしたが探れば何某かの物語が其処にあるのかも知れません。 弘治2(1556)年は桶狭間の戦いの未だ4年前、 曳馬城城主は未だ今川方の飯尾豊前守乗連いいおぶぜんのかみのりつらであり 遷座の関与が推測されます。 中島は今は馬込川となった古天竜川の袂に位置し 天竜川沿岸から水難を避けて広沢に移った 普済寺 と理由を同じくするもの[※3] かも知れません。 遷座以降も杉浦家と中島の関係は続いたのは杉浦家墓所が中島六本松諏訪神社の直ぐ傍、 中島諏訪公会堂に隣接した地所に祀られていることから分かります。 なお浜松城大手前の地所は後の諏訪神社参道口辺りで北隣には杉浦氏邸宅が建ち ちょうど現在の浜松信用金庫伝馬町支店に当たる[※3] と言います。

浜松城大手前の諏訪神社大祝家邸宅跡地に建つ浜松信用金庫伝馬町支店と諏訪神社参道、遠く坂上にははまホールが見える(2017年8月23日撮影)
浜松城大手前の諏訪神社大祝家邸宅跡地に建つ浜松信用金庫伝馬町支店と諏訪神社参道、遠く坂上にははまホールが見える(2017年8月23日撮影)

由緒について言えば18世紀半ば頃の成立とされる 浜松諏訪大明神略記 には延暦10(791)年に 坂上田村麻呂さかのうえたむらまろ が勅命により下向の途次六本松に霊夢を見たによって宮を建立したのを始まりとしています。 また源頼義は鎮守府将軍として奥州征伐の折戦勝祈願に立ち寄り、 其の子八幡太郎義家も戦勝の礼に領地を寄進したなど源氏一門の崇敬を集めた旨が記されています。 然る後南北朝に衰微したものの諏訪大社神札の享徳3(1454)年の漂着へと縁起は物語られるのです。 浜松諏訪大明神略記に此の如く記されるのは杉浦家の国学思想と財政主体が公儀徳川による面もあるかも知れませんが、 想像を逞しゅうすれば家康の浜松入城に先ん立って浜松に根を張った杉浦信定が 縁者知己を頼って家康に取り入るべく何某かの伝承を元に練られた計略であって 家康は急ぎ自家薬籠中の物としたい新地に馴染みの三河衆の策に乗ったのかも知れません。

五社神社と同様に諏訪神社も秀忠の産土神とされましたが 秀忠誕生時は家康は藤原を称しており源氏に鞍替えするのは未だ数年後です。 従って中島に根を張り武辺にも働いた元三河衆の杉浦氏を取り込む意味があったのかも知れませんが 徳川が源氏の棟梁を称すとなれば話は変わって来たでしょう。 また慶長10(1605)年には秀忠が将軍宣下され二代将軍家の産土神たる両社は 弥弥いよいよ重きを増したものと思われます。 源氏将軍家が徳川家に世襲されるのを世に周知させるものであれば尚更です。 慶長15(1610)年には諏訪神社へ秀忠期にかなり異例の朱印地加増がなされました。 そして慶長19(1614)年 大坂冬の陣 への出征時及び凱旋時、秀忠の諏訪神社に参拝したのは武家の棟梁たる源氏の先例をなぞるかのようでもあります。 翌元和元(1615)年には 大坂夏の陣 で天下の大勢を決めれば帰途再び諏訪神社に参拝し、自ら直々検分の上で社地を 杉山 に移すよう指示します。 杉山とは現在の 浜松復興記念館 の建つ土地ですので五社小路に五社神社と向かいの位置に在ったことになります。 杉山への社殿普請下命は同年7月に下され早くも同年4箇月後の11月26日には遷宮の運びとなりました。 斯うして常寒山に遷って諏訪神社は家光の時代へと引き継がれたのです。

秀忠の指示した諏訪神社遷座地杉山には現在浜松復興記念館が建っている(2017年8月23日撮影)
秀忠の指示した諏訪神社遷座地杉山には現在浜松復興記念館が建っている(2017年8月23日撮影)

諏訪神社大祝杉浦家からは 杉浦国頭すぎうらくにあきら[K3] が出ました。 国頭は遠江国学の始祖と言われますが 大祝として元禄11(1698)年から度々諏訪神社修繕の嘆願に出府などあり、 やがて元禄14(1701)年江戸に 荷田春満かだのあずままろに知己を得たのを国学を志す契機としますから 正しく諏訪神社の導く縁であった訳です。 森暉昌と同じく賀茂真淵の師父となった国頭は慶長6(1678)年生まれ、元文5年(1740)没ですので 暉昌より8歳年長、没年は暉昌に一回り先立つものでした。 諏訪神社は明治6(1873)年に 村社 に列せられました。 なお杉浦家にあっては平成に至ってご子孫が東京近郊にご在住であるのが知られた[※1] と言います。 同家に伝わる幕末から明治期に掛けての資料も提供され現在書籍に広く公開されている[※2] のは喜ばしい限りです。

寛永期の完成

冒頭の俚謡に謳われた街道から両社を仰ぎ見る形が整ったのは寛永期、三代将軍家光の命によってでした。 元和9(1623)年家光が将軍宣下を受け徳川政権は揺るぎない地位を確立します。 五社神社と諏訪神社の意味も変容して来ました。 唯に徳川宗家の崇拝を受ける一地方の産土神に留まらず天下人の守護神たりて徳川公儀発揚の宿命を帯びたのです。 寛永5(1628)年には大祝杉浦家に時の浜松藩主 高力こうりき摂津守忠房 を通して諏訪神社祭礼儀式詳細の通達を下した其の内容は 単に従来の戦勝祈願から天下泰平を祈願するものへと変じて[※1] います。 寛永9(1632)年に大御所秀忠が薨じると其の産土神たる五社諏訪両社は 生まれながらの将軍、家光によって祖先神の霊廟たる意味をも加えられ幕政に重きを弥増したのです。

家光は寛永11(1634)年の上洛時自ら参詣し五社、諏訪両社に社領200石を其々加増し同時に両社社殿の大造営を命じました。 此の時諏訪神社社殿の建つ位置は杉山から五社神社の南隣へと遷座が決定せられたものとされます。 五社、諏訪神社寛永造営時の配置推定図[※1]を見れば 五社神社は三段、諏訪神社は二段となって截然と社殿領域は分割されていますが 南北に隙間なく東海道、即ち東方を向いて整然と並び建つものとなっています。 東海道を往来する人々から西方に仰ぎ見られる存在となるべく 諏訪神社の社殿を杉山から五社小路を越えて五社神社と相隣りて並び建つように社殿位置は企図されたのでした。

浜松藩主高力摂津守忠房が寛永15年5月に寄進したと刻まれる手水鉢は今も五社神社中ノ段に残る(2017年6月27日撮影)
浜松藩主高力摂津守忠房が寛永15年5月に寄進したと刻まれる手水鉢は今も五社神社中ノ段に残る(2017年6月27日撮影)

造営に要した期間は3年とも4年とも言われるのは何を以て完成とするかに由って異同が生じるからで本稿 合祀の経緯 にも昭和の復興に於いてさえ昭和38(1963)年から平成4(1992)年と長期間を要せば寛永の造営時にも同様であったのだと思われます。 当初普請の主となった浜松藩主は高力忠房にて今も残る手水鉢には 寛永十五戊寅年五月吉日 に寄進された旨刻まれており(傍らの案内板には戌寅いぬとらと書かれていますが戊寅ぼいんの間違いではないかと思われます[追記参照]) 此れは同年肥前島原に転封てんぽうとなった際に 五社、諏訪両社に献納したとされます[※5] が社殿工事の完了など何某かの目処が立った折でもあったのかも知れません。 忠房は家光の意を受け両殿構築に相当の尽力をしたとされる通り其の思いが伝わる花崗岩製の立派な手水鉢です。 手水鉢は諏訪神社にも献納され其れは二つに割られた状態で残ると言いますが本稿執筆者に未見分にて 折有らばフレームに収め紹介したく思っています。[追記参照] ともあれ浜松藩主は此の忠房から 松平乗寿まつだいらのりながへと代わり 数年後寛永18(1641)年11月26日に漸く遷宮が執り行われ足掛け8年を以て家光の目論見は完成をみたのでした。 竣成時には拝殿幣殿本殿は言わずもがな楼閣から末社に至る迄残らず金装飾金具も施された極彩色に彩られていたと言い、 大正、昭和の国宝指定の理由の一つでもあった欄干、蟇股、手挟たばさみ、木鼻など付随の彫物も見事な出来だったのでしたから 往時の其れは日光東照宮も宛らの様子であったのでしょう、正に徳川の威信を掛けた大事業でした。 本殿の形式こそ由来、固有の格式から異なりますが其れに連なる権現造の両社殿が常寒山上に並び建ったのです。 冒頭の江戸後期に描かれた遠江州敷智郡浜松御城下略絵図一部拡大図を見れば往時の様子が分明に捉えられるものです。 斯くて冒頭の俚謡の謳われるのは必然だったでしょう。

以降両社宮司家などの尽力を以て江戸期を通じて其の威容を誇り、 明治維新後の困窮期を乗り越え往時に復旧のなった両社も まことに残念ながら太平洋戦争によって灰燼に帰してしまい 浜松からは二つの国宝が同時に失われてしまいました。

数奇な運命

五社神社境内から現在五社公園に移された戊辰之役報国隊記念碑(2015年12月24日撮影)
五社神社境内から現在五社公園に移された戊辰之役報国隊記念碑(2015年12月24日撮影)

大祝杉浦家邸宅の跡地は現在五社公園となっています。 公園敷地内には 戊辰之役報国隊記念碑 と刻まれた石碑が建っています。 報国隊とは即ち 遠州報国隊 のことにて 慶応4(1868)年2月に遠州の浜松、磐田地方の神官層が主体となって倒幕を目的として組織された 草莽隊そうもうたいの一つです。 折しも此の年正月には鳥羽伏見の戦いが京に勃発し戦況は戊辰戦争へと拡大する最中に結成され 錦の御旗を掲げた官軍の東征に先鋒として隊員三百余名が従軍したと言われます。 此の碑は明治40(1907)年設置当初は五社神社境内に建っていましたが、 後、五社公園に移され現在に至っています。

幕末尊皇攘夷の風は遠州にも吹き荒れました。 其の中心となり急先鋒となったのは遠州地方の神官達でした。 慶応4(1868)年に発布された神仏判然令しんぶつはんぜんれい(神仏分離令)は 江戸期迄連綿たる神仏習合しんぶつしゅうごうを許さず 神道と仏教の截然と分かたれるべく企まれた法令でしたが 実は五社、諏訪神社では其の100年前から実現していたとも見られ、 大きく関与したのは諏訪神社神官の杉浦国頭であったとされます。 享保、元文期の五社諏訪修繕に於いて諏訪神社の鐘楼、鼓楼、十王堂など撤去されたのは 財政難の公儀から漸く引き出すも修繕費用の不足、手元不如意からとも考えられますが、 杉浦国頭の神仏判然令に先立つ神社の有り様に関する思想を元にした判断が働いたとも考えられている[※1] のです。 そして五社諏訪神官の杉浦国頭、森暉昌の学問は賀茂真淵から 内山真龍うちやままたつ に引き継がれ遠州国学として大きく花開きました。 五社諏訪両社神官が魁となれば後の遠州神官達が尊皇攘夷に傾くのは自然だったでしょう。 しかし其れは幕末には倒幕に直接結び付くものでした。

家康が嫡子信康を失う直前に生まれ後継として大いに期待を掛ける三男秀忠には如何様な思いがあったでしょう、 産土神として両社を引き上げ 其の意を深く汲み取った秀忠の両社に対する尊崇は否応にも高まり、 そして其の子家光は遂に父親の産土神を祖父家康の東照宮に比すべき程に引き上げました。 以降江戸幕府に於いて特別な社位を確立した両社は度々の社殿維持を公儀で以て賄います。 大掛かりな修繕に当たっては両社神官は陳情に江戸表を訪れる必要がありました。 杉浦国頭は江戸に於いて 荷田春満かだのあずままろ に出会い認められ姪の 真崎まさき は国頭に嫁娶かすうせりて 浜松にて幼い賀茂真淵に読み書きを手解てほどきしたのでした。 更に言えば賀茂真淵が出奔に近い形で学問を志す決して経済的に豊かとは言えない中に春満の縁で其の甥で養子となった 荷田在満かだのありまろ の知己を得、其の縁で徳川御三卿田安家初代宗武国家八論論議を展開し、 其れが延享3(1746)年2月の田安家への仕官と繋がった[※6] のでした。 斯くも五社諏訪両社及び遠州国学は徳川家と縁があった訳です。 遠州国学は斯うして神官達にも大きな隆盛を見るのは必然でしたが 幕末となり尊王攘夷思想が高まると国学思想の浸透した神官達に倒幕の機運が高まるのもまた必然だったでしょう。 而して尊王攘夷運動に集まる神官達の集合場は両社でした。 従ってこそ報国隊之碑は当初五社神社境内に設置されたのです。 両社に祀られる家康は倒幕に集う神官達を見て其の心中は如何許りだったでしょう。

報国隊之碑の裏最上段には戊辰戦争東征軍の指揮官の一人 大村益次郎 の沙汰状の復刻されており[※5] 白虎隊 で有名な会津戦争の終結を以て東北の平定もなり、帰国及び引続き奉公の指示がなされているものです。 大村益次郎は靖国神社の前身となる 東京招魂社 の肝煎りでもありましたが、前述の大歳神社石津宮司のお話に此の東京招魂社は当初、 静岡県の官軍三隊、即ち遠州報国隊、此の結成に促された 駿州赤心隊伊豆伊吹隊 の招魂社として 徳川の裏切り者として暗殺され故郷に帰れなかった者達の魂を祀る なる義を以て開かれた旨、伝え聞かれているそうです。 遠州報国隊を江戸に弔う社殿は勅命に靖国神社となり様々な意味付けのなされ現在に至っています。 其の靖国神社の宮司を現在務められるのは徳川氏の系譜を継ぐ方だということです。

戦後昭和の合祀及び社殿復興に中心的役割を果たした奉賛会の名誉会長は 徳川宗家十八代当主の徳川恒孝つねなり氏でした。 徳川恒孝氏ご本人のインタビューが掲載される[※7] のを閲すれば会津松平家から徳川宗家の養子となられた旨語られています。 会津と言えば前述の東北戦争の主戦場でもあり会津藩は幕軍として最後迄官軍に抵抗した雄藩筆頭の譜代藩であって、 其の祖は家光の実弟として陰に陽に幕政を支えた 保科正之ほしなまさゆき でした。 其の系譜を継ぐ方が遠祖秀忠の産土神復興の中心的人物となるのは必然でもありながら 其の不可思議な巡り合わせをも感じさせるものです。

追記(2017年9月27日)

2017年9月17日に本稿のプリントアウトを持参して再び五社神社に詣でました処、 神職の方々にお話を聞くなどして知り得た事項も幾許かありましたので此処に追記します。 先ず手水鉢の案内板に於ける文字間違いについては其の旨申し上げましたので近々修正されるものと思います。 次に孰れ稿を起こすべく目論んでいる処の石垣についてお尋ねすると 神職の一方が写真のコピーを取り出して見せてくれました。 昭和28年(1953)頃の諏訪神社の仮殿ではないかとされる此の写真は 其の通りであれば昭和35(1960)年に両社が合祀される以前の昭和24(1949)年に竣工した仮殿の内にも諏訪神社のもの、 と大変貴重な資料となり得るものですが 実際は孰れの機会に孰れを撮ったものか判然せず 其れを尋ねるのに五社神社に齎されたもののようです。 持ち主が分からず許可も取れませんので神職の前で撮影はしましたが此処での掲載は控えておきます。 また瓜二つの手水鉢の存在を尋ねると確かに保存はされているが公開は残念ながら叶わない様子です。 然う斯うしている内に社務所の奥から吉田宮司がお出まし下さいました。 郷土史を研究している旨申し上げ 社務所の本棚いっぱいの書籍を眺めつつ調べ上げる段階で分かっていた筈ながら さぞかし立派な文書が残されているのですね、と失言すると 宮司はいやいや戦災で全て燃えてしまいましたので一般書籍ばかりですよ、 色々お調べのようですがそんな訳で恥ずかしながら古いことは良く分からないんです、 と謙虚なお人柄が窺い知れるお返事を下さいました。 例えば石垣の伝説についても代々の口承などはなく一般の方々と同じく郷土史関連本などから知り得る処と変わらない旨仰います。 社殿について吉田宮司が随分力をお尽くしになられたそうでと 流れの中で知り得た処をお話すれば先代がかなり苦労を重ねられた旨お話下さいました。 また現職も其の際は浄財の勧進に各地をお供されて廻られたのを懐かしそうに話されたのが印象に残っています。 さて此処ぞとばかりもう一度諏訪神社に寄進された方の手水鉢についてお願いしようとお尋ねすると 此方のお願いには写真撮影とインターネットでの公開の許可が含まれておりますから 矢張りものなどが入っていてお見せするのは難しい状態とのことで、 またもや失礼ながらなるほどゴミ置きのような感じになってしまっているのですね、と言い放ってしまったのですが 決して其のような扱いはしていないが事情があってお見せできないのですよ、と優しく仰いました。 此のような話の合間に本稿のプリントアウトなど出して説明など申し上げると 有難くもいただけますかとのお申し出に勿論です、と住所氏名を其の場で最後のページに書き込んでお渡ししました。 お渡しするにも図々しく森家から吉田家に宮司職が移ったのは維新後県社に列した頃で間違いないでしょうか、 其の頃の事情など教えて下さいますでしょうか、などと間髪置かずお尋ねすると まあまあと宥められながらもとても奥ゆかしいお人柄で なかなか自分の知り得ないことなど書かれると困ってしまうなあと苦笑しつつ仰いながら其の場で本稿をご覧になられたものです。 暫くご覧になっていると後段の俚謡に此れを聞いたと言うのは自分ではないので現在のと言うのは違いますよ、とお教え下さいました。 本追記と共に本稿に取り消し線を引いて現在を先代に直した処です。 併せて本稿執筆の際にも訝しがられた後段の俚謡は矢張り現在の吉田宮司も聞かれたことがないそうで 此れにて国立博物館の書籍の間違いがはっきりしたもの[※1] です。 恐らくは大量の史料の整理の中に勘違いで前段の俚謡の上の句と石垣に関する俚謡の下の句が入り混じってしまったのでしょう。 一応プリントアウトの最後には署名と連絡先を書き込みましたので 怪しからん部分は直しますからご遠慮なくご指摘くださいと申し上げて 端無くも数十分ほどに及んでしまった歓談を辞しました。 どこの馬の骨とも分からぬ人物の突然の訪問に丁寧に対応して下さりとても感謝しております。

二つの神紋があしらわれた五社諏訪神社拝殿の御幕(2017年9月17日撮影)
丸に梶の葉紋と下がり藤紋の二つの神紋があしらわれた五社諏訪神社の御幕おんまく(2017年9月17日撮影)
梶の葉紋は足が4本数えられるので上諏訪社に所縁と考えられ、また下がり藤紋は藤原氏氏神の春日大社の神紋でもある
参考文献(※)
  1. 五社神社・諏訪神社の歴史と建築 調査研究報告書五社神社・諏訪神社社殿等修理関係資料 本文篇(東京国立博物館/編・東京美術刊)
  2. 五社神社・諏訪神社の歴史と建築 調査研究報告書五社神社・諏訪神社社殿等修理関係資料 図版篇(東京国立博物館/編・東京美術刊)
  3. 五社神社・諏訪神社の歴史展:浜松読書文化協力会・浜松市立中央図書館/編(浜松読書文化協力会刊:2003.7出版)
  4. 五社神社諏訪神社御社殿復興工事竣工記念誌(五社神社諏訪神社社務所平成5年3月15日発行)
  5. 浜松市の石造文化財(浜松市石造文化財調査会編2001年発行)
  6. 賀茂真淵 生涯と業績(寺田泰政著/浜松史跡調査顕彰会1979出版)
  7. 日本史再検証名家の「その後」(監修森岡浩/別冊宝島2586ムック)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 信長の戦国軍事学~書評2~織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日 )
  2. 桶狭間現地を訪れ信長公記桶狭間の戦いを再読す(2017年6月24日)
  3. 杉浦国頭の書き残した浜松の二つのうとう坂(2017年4月29日)
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