浜松一中現北高校の毒大福餅事件の慰霊碑

ゴールデンウィークは浜松祭りの最中、 浜松城の北に位置する浜松北高等学校に出向きました。 休み期間中にも関わらず練習に余念のない野球部員の皆さんが グラウンド脇を通る此方に大きな声の気持ち良い挨拶を届けてくれます。 休み中ともあって学校受付自体は閉じており ちょうどバックネット裏に位置する慰霊碑迄歩いて監督さん、若しくは部長さんに見受けられるお方にお断りを入れて撮影をしました。

校庭東南隅に設置された慰霊碑の碑文には以下のような刻文が穿たれていました。

浜松北高の慰霊碑(2017年5月3日撮影)
浜松北高の慰霊碑(2017年5月3日撮影)

昭和十一年五月十日校
内運動會を舉行す會終
って恒例に依り紅白の
餅六個を生徒に分つ何
ぞ知らん餅中毒菌を含
まんとは一夜にして病
床に呻吟する者二千二
百有餘難に殉する者生
徒二十九名家族十五名
の多きに及ぶ實に未曾
有の悲惨事たり
同窓會保護者會校友會
相謀りて資を集め本縣
教育會其他篤志家の浄
財を加へ茲に碑を建て
以て英靈を弔ふ
 昭和十二年五月建之
  中島録平書
  松下誠宏彫

時は折しも二、二六事件の勃発した昭和11年(1936)、 世相の大きく揺れる中数ヶ月後の浜松にも大事件が起こっていました。 当時の浜松第一中学校、現在の浜松北高等学校の毒大福餅事件です。 此の犠牲者の慰霊の為にこそ此の慰霊碑は建てられました。 事件の翌年、ちょうど一年を経た5月の建立と碑文にも刻まれています。

事件のあらましは慰霊碑の刻文に明らかなように 昭和11年(1936)5月浜松第一中学校の運動会を終え奮闘の生徒皆々に其々6つずつ振る舞われた大福餅を原因とした食中毒に 2,200人以上が罹患し、あろうことか生徒29名、ご家族15名の尊い命が奪われてしまったというものでした。 ネットには此の事件が 紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件 と題するドキュメンタリー小説にまとめられシェア[※1]されてもいますので一読すれば更に踏み込んで事件を知れるでしょう。 加えて詳細を知ろうと当時の新聞記事を閲すると 第一報こそ事の重大性を鑑みて事件から三日後に東京朝日新聞の号外や静岡民友新聞の夕刊として報じられる抔 良識的側面から抑制されましたが矢張りマスコミのご多聞に漏れず当時の事件に関連した世情は窺えるものの 速報大事とばかり些か野次馬的物見高さやワイドショー的好奇の目で語られ正確性に欠ける嫌いもあるようです。

今となって当時を省みる正確な資料として適当なものを捜して見ると 静岡縣警察部衞生課 により発刊せられた 濱松市ヲ中心トシテ發生セル食中毒事件ニ關スル状況報告書 が存しました。 此れは未曾有の大惨事なるも人の世の常にて孰れ薄れ行く記憶が認識せられる事件から凡そ半世紀を経た昭和58年(1983)に 資料さえ失われようとする中幸運にも一部発見されたものを後世に伝えるために 浜松市食品衛生協会創立十周年記念事業の一環として当時の新聞記事などの複製を併せ非売品ながらも復刊されたものです。 以下に概要の知れる1頁目の緒言を引用しましょう。

昭和十一年五月十一日突如濱松市ヲ中心トシテ、食中毒事件發生セリ、 該中毒事件ハ従来本縣内ニ於テ發生シタル中毒例ト異ナリ、 其患者數ニ於テ或ハ患者發生範圍ニ於テ未曾有ナルノミナラズ、 全部ニテ四十六名ノ死亡者ヲ出シ、 且ツ「ゲルトネル」氏菌ニヨルモノナルコト判明サルゝニ及ビ 一般世人ハ勿論學界ニモ多大ノ衝動ヲ與ヘタル所ニシテ、 就中衛生技術員ニ對シテハ緊要ニシテ輕視シ難キ事件タルノミナラズ 一種ノ警告ヲ與ヘタルモノナリ。
玆ニ本事件ノ状況ヲ記述シテ本省ヘノ報告トナシ併セテ将來ノ参考資料タラシメントス。

原因は ゲルトネル氏菌 なる毒であったと結論付けられていますが此の結果が得られるのは簡単ではありませんでした。 報告書に依れば原因食は当時の状況から直ぐ大福餅と当たりが着いたようです。 一人分紅白3つずつ併せて6つは竹の皮に包まれ1,040人分、都合6,240箇の大福餅が用意され 其の内、生徒988名、職員37名、小使4名の1,019名に配られたと10名程計算が合いませんが報告書には記されているものです。 14頁には紅い餅は食紅で着色されたもので白餡、黒餡が3つずつで6つ一人分と言う分配で白黒餡と紅白の関係は特別記されてはいません。 食紅及び餅を原因とする可能性は薄いと考えられたようで次15頁には白黒餡と被害者が数表化されており 明らかに黒餡に多くの被害者が多く見られると報告書も述べていますが白餡のみと言えど食された方からは5名の死亡者が出ています。 原因食の特定はなったもののしかし大災害の被害者の多さに先ずは其の手当に割かれ原因特定の調査は 事件発生より2日後の12日の午前2時に漸く技術者の浜松への到着集合などもあって開始せられたようです。 原因食たる大福餅への毒物混入などの検査も行われたものの支障は見当たりませんでしたが 細菌学的検査に於いては手応えの得られた様子も伝わってきます。 12日午後7時頃に至り症状の中程度の罹患者4名から糞便を採取、 13日には白黒両餡の大福餅を入手し共に培養し また加えてマウスを用いた動物実験も実施、 徐々に結果の得られ遂に ゲルトネル氏腸炎菌 が原因であるとの断定を得たのでした。

原因たるゲルトネル氏菌が特定されれば同菌媒介は鼠であるとの判断が為されたもののようで 大福餅の製造所を中心に付近家屋から家鼠を捕獲し同菌保有の検査が実施されました。 捕獲した鼠は103匹で其の内2匹からゲルトネル氏菌が検出され 更に其の内1匹が正しく大福餅の製造所から捕獲したものであると報告書は記します。 また製造所で飼育していた猫も解剖に掛けてみたものの当該菌は検出されなかった旨も加えられています。 植物性から鉱物性の毒物混入、即ちすわ無差別大量殺人事件の可能性などを書き散らしていた新聞は 16日漸く此れ等の検査結果の公表を受け落ち着き 衛生に警鐘を鳴らす論調へと転じている様子が報告書複製に付録せられた当時の新聞紙面から窺えもします。

如何に大福餅の餡が製造されたか工程も報告書は追っており其れは14頁に (三)原因食タル大福餅ノ製造工程 と項目立てられ記されています。 以下に引用しましょう。

原因食タル大福餅ハ菓子製造販賣業濱松市鍛冶町木俣万次郎(屋號三好野)方ニテ製造納入セルモノニシテ其製造行程ハ左ノ如シ。
大福餅ニ使用スル餡ハ黒餡白餡ノ二種ニシテ、黒餡ハ五月八日午前八時頃ヨリ、小豆一斗三升ヲ「アルミニユーム」鍋ニテ約三時間乃至三時間半煮上ゲ、之レヲ桶ニ移シ、冷水ニテ洗滌スルコト三回、之レヲ摺リ潰シテ火ニカケ餡トナシ天竺木綿ノ袋ニテ漉シ水分ヲ去リ、之レニ六割ノ分量ノ砂糖(英白双四貫六百八十匁)ヲ加ヘ一時間乃至一時間半煮沸ス、白餡は浜松市常盤町石川製餡所ヨリいんげん豆ヲ五月九日ニ買入レ、前同様ノ割合ニ砂糖ヲ混ジ、前同様ニシテ製造ス。
出来上リタル餡ハ琺瑯製「バット」ニ入レ貯蔵棚ニ置キタリ、而シテ五月九日午後十時搗キタル餅ニ包ミテ大福餅トナシ、十日午□(前カ)十時作業ヲ終了セリ、且ツ之レガ爲ニ使用セル器具ハ臼、桿、バケツ、桶、「バット」ニシテ之等ハ水道水ニテ洗滌シテ使用セリト云フ。
此製造工程ヲ簡單ニ示ス時ハ次ノ如シ。

以下には上の引用に「次ノ如シ」とされる縦書きの図解をほぼ忠実に横書きに書き直して貼り置くものです。

静岡縣警察部衞生課濱松市ヲ中心トシテ發生セル食中毒事件ニ關スル状況報告書(三)原因食タル大福餅ノ製造工程
静岡縣警察部衞生課濱松市ヲ中心トシテ發生セル食中毒事件ニ關スル状況報告書 三の三 原因食タル大福餅ノ製造工程

此れに依れば矢張り犠牲者を多く出した黒餡の方が白餡より貯蔵の時間が長かったのが分かります。 実は此の第二次世界大戦前の事件が話柄に上ったのは比較的年齢層が高い所属員の多い古文書解読会にて 蜂蜜を口にした赤ちゃんが亡くなってしまったニュース[※2・3] が話柄に上った関連からでした。 赤ん坊に耐えられない毒となる ボツリヌス菌 が含まれている可能性が高いのは出産経験のある女性なら大抵知っていることであるなどとの話から 昔は少々の毒ならとんじゃかなく喰らったと転がり 折りしも解読会で読み合わせ中であったのが小夜の中山で 実際に現地で水飴を売っていたお婆さん、 因みに皆んなこのお婆さんの年齢を百は超えてるなど話題にするし本人も矢鱈年齢を尋ねられるのだとの話などを織り込みながら、 此のお婆さんなど自らの舐めた指で掻き混ぜた水飴を平気で売ってたなどと転がり 毒の話柄が転じて北高の毒大福餅事件へと最終的に転がったのでした。 話柄は毒たるゲルトネル氏菌へも及び大きな被害へと広がったのは同菌が時間と共に増殖し 早い時間に食べた方が被害が少なかったようだ、などとの話も出ました。 此の如き一般への認識もあったようですが新聞などから得られた知識から人伝に伝わった情報のようで 専門的である上記報告書には確かに餡の貯蔵期間の長さが致死率に比例する様子は読み取れはしますが 返って早い時間に食べた者の方が被害は少ないとするような内容に該当する言及箇所は見つけられませんでした。 報告書の12、13頁には亡くなった方の摂食行為から発病、死亡について時系列を追って数表化されていますが 此れが材料になったとも考えられなくもない一般の認識の様な判断を得られる材料でもしかし特段ないようで、 然りながら当時リアルタイムで新聞などから事件を把握していた市民の様子も今更ながら窺い知れ 情報の拡散を知るのに興味深くあります。

ゲルトネル氏菌は長時間を措いた餡に増殖し大きな災いを招きました。 当時貯蔵施設も現代から見れば満足行かぬ設備であったでしょう、折からの好天続きもあったようです。 自動装置もなければ人力で六千箇を超える大福餅を拵えるのに時間の掛かるのは止むを得ぬ製造所一箇所への発注も よもや此の様な大災害を招くとは思いもよらぬ選択でしょうし、 受けた製造所にしても大商いを一手に引き受けたい欲求は免れ難いでしょうし 凶悪な保菌動物の極く間近に生息するなど思い至らなかったのでしょう。 誰の故意にもなく悪条件が重なって事件は起こってしまいました。

斯くしてゴールデンウィークに現浜松北高校へと出向き慰霊碑の撮影をし、 また当時の資料を漁ることと相成ったのでしたが様々な資料群には興味深いものも見付かりました。 㐂寿を迎えて なるタイトルの非売品の 渥美嶮次郎 なる人物の自伝です。 嶮の字は奥付を見れば つくり が剣の りっとう がない形になっていますがインターネットに他ご著書を見ても嶮の字が用いられていることから ご本人の意に添わず申し訳ないながら現状変換が効かない漢字でもありますので此処でも嶮で代用したく思います。

浜北貴布祢長泉寺山門(2016年12月10日撮影)
浜北貴布祢長泉寺山門(2016年12月10日撮影)

渥美氏は遠州浜北は貴布祢の農業兼薬種屋の 木俣 家のお生まれにて同家は相当の旧家であったが菩提寺の 長泉寺 の火災で過去帳を失い先祖や家系について古い処は分からないとしています。 縁は異なもの味なもので実は本記事執筆者は当寺の見学に出向いたことがあります。 何となれば当寺山門は幕末最後の浜松城主 井上河内守正直 の下屋敷門であったからで 御一新を迎え平野家、気賀家の共有となった後、 平野社団の所有から同寺へと昭和3年(1928)に寄贈された経緯があります。 見学をご一緒した方は当寺の三番目の檀家だとのお話しで 聞けば同寺檀家の第一は寄贈家の平野家で 気賀家も西遠に紛うかた無き名家ですが 同家は地銀の雄 静岡銀行 の前身の一つ 遠州銀行 の創立者の家系でもあります。 そして第二が木俣家とのお話しで矢張り西遠に聞こえた名家であるのは間違いありません。

渥美氏は貴布祢から浜松へ移り元城小学校から明治41年(1908)年 静岡県立浜松中学校、即ち現在の北高校へ進みましたから事件は母校で起きた訳です。 代々薬種屋を営んだ同家家業は綿々たるべく氏はそして大学に薬学研究の道に進んだのでしたが 何故に姓が異なるかと言えば一族でもあり渥美氏のお父上の従兄弟であった 渥美市平 氏に子がなく養子となったからでした。 此の市平氏こそ誰あろう浜松に現在手広くドラッグストアを展開する 杏林堂 の開祖でありました。 従って跡を継いだ渥美氏は薬学研究の道から薬局経営の道へと転換したのでした。 経営の最中も氏は写真材料商組合組合長、東海歯科用品組合組合長静岡県支部理事、など歴任されているのですが 昭和11年2月には総会で県薬剤師会浜松支部長に選出されており 従って正しく此の重要任務の時期に在る時に母校で事件は発生しているのでした。 自伝には129頁から132頁の4頁が割かれ母校の事件を学者らしく冷静に綴られています。 中にも薬剤師会の長として直接事に当たった部分は事件を側面から知るにも有用にて以下に引用しましょう。

薬剤師会では急遽役員会を召集し協議したが何等手のつけ様もなく、ただ情報を待つだけであり、罹患会員の家庭をお見舞いする程度であった。当時の錦織校長は事件発生の翌十一日夕刻、浜松警察署長に電話にて急報し前後策に頭を悩ました。この様な状態では市内開業医だけでは手不足なので衛生関係の機関総動員となった。警察署衛生課、県衛生部、赤十字社、県医師会等の応援により救護班を組織、原因究明に不眠不休の大活動を展開するに至った。

渥美氏の此の文章は慰霊碑の建立を以て犠牲者の冥福を祈るとともに二度と繰り返さぬ為の指標としたものと結ばれています。 浜松の鴨江観音では供養祭が催されるに遠州大念仏[※4] も参加し模様は浜松放送局より遠州一帯に実況中継放送された、と 遠州大念仏保存会 の編する 「ひとにわ」は語る音は不滅 に記されています。 事件発生の年末12月15日に発刊された一中の 校友会誌第66号は中毒事件追悼号とされました。 後には北高八十年史にも勿論多くの頁が割かれ忘れてはならない事件として記されているものです。

平成元年(1989)には浜松一中45回生の文集が 紅顔群像 と題し刊行されました。 昭和11年(1936)に一回生13歳であれば2017年現在94歳になられる勘定の編集代表も務めておられる 加藤毅康 氏は事件の被害者のお一人で刊行時には66歳であられた筈ですが 此の時になっても後遺症で腎臓を患われている様子を一文に記されています。 実は加藤氏のみならず死亡被害者以外にも二学期になるも体調優れず休学を余儀なくされた方々の在ったそうです。 同文には当時も消えぬ大福餅製造業者の三好野への憤懣遣る方無い想いが切々と訴えられているのでした。 菓子製造販売業者の屋号は 三好野 、事件発生から9日後の5月19日に関係者全員が釈放されたとする新聞記事が北高八十年史に残っています。 昭和58年(1983)に刊行された はままつ百話−明治・大正・昭和 では著者の一人の元浜松図書館館長の 大塚克美 氏の文責にて此の事件が記されており三好野についての箇所を以下に引用しましょう。

大福餅を作り納めたのは鍛冶町菓子製造販売で名が売れていた「三好野」ではじめ中毒の原因がつかめないままに、 噂が噂をよんで流れ、「三好野」の中傷が乱れ飛んだ。
…(略)…
中毒の原因については、さまざまの流言に踊らされ、「三好野」店舗はメチャメチャにこわされる一幕があったが、

浜松に菓子製造業者としての商売は愚か居住するさえ難しくあったでしょう。

浜松北高の慰霊碑々文(2017年5月3日撮影)
浜松北高の慰霊碑々文(2017年5月3日撮影)

本記事に記す此の大事件は今となっては浜松市民でさえ記憶から遠のき 幾許か年齢を人より重ねた人の集まる中に斯うして時折姿を見せるだけの なかなかに知る者のない世の中となってしまいました。

さて昭和30年代の話、 古文書解読会の中心的役割を務める方に 渡邊 氏が居られるのですが其の頃氏は浜松の地場産業たる織機製造の エンシュウ に勤めておいででした。 或る時入社時からお世話になり社内に限らない処世術など様々教えを請うている先輩と共に 引き継ぎを含めた福井県への出張業務があったそうです。 織物業界は挙って木綿からフィラメント繊維、即ち化学的長繊維へ切り替えの頃、 エンシュウ社もフィラメント織機に取り掛からねばならない端境期にあり 長繊維である絹織物の本場の越中、越前への出張は欠くべからざる時代でした。 そんな出張先の福井県で或る店舗の前、先輩から藪から棒に、此の店が何か知っているか、と問いかけがありました。 実は渡邊氏でさえ其の時迄は一中毒大福餅事件のことは其れ程詳しくは知らなかったのだそうで 現在の浜松市民の脳裏から薄れてしまっていても止むを得ないのかも知れません。 皆目見当の付かない様子の渡邊氏に先輩は 此れこそ浜松一中毒大福餅事件の製造業者が事件以降浜松にいられなくなって此処福井に転居し開いた店だ、と答えられたそうです。 渡邊氏は此の話を聞いたことだけ鮮烈に覚えており毒と聞くと此の話を思い出すので 赤ん坊に毒となる蜂蜜を与えてはいけないとする話柄から想起したとのことです。 其れ以外は店舗名さえ忘れてしまい、また其れ以降は其の店舗にも足を運ぶことはなかったとのことで従って其れ以上は場所さえ分かりません。 想像を逞しゅうすれば先輩は店舗にて土産に和菓子でもと物色しながら 浜松からの出張であるのを含ませた問わず語りに現店舗の方から端なくも漏れたのかも知れませんが、 想像は兎も角先輩が何処から其れを知り得たのかは今となっては分かりません。 場所も店舗名も判然しないからこそ一世紀近い昔の不名誉な記録の蒸し返され特定される心配もないでしょうので エピローグのエピソードとして本記事末尾に記し置くこととしました。

浜松市民でさえ記憶から薄れかけている戦前の一中の大悲劇はしかし 斯うして慰霊碑のグラウンド隅に建てられ平明な文章で事の経緯が語られれば 少なくとも現在でも静岡県立浜松北高校の生徒となり、 また卒業した者には心の奥底に刻まれ決して風化する事はないでしょう。

参考URL(※)
  1. 紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件(小説家になろう:久保親弘)
  2. 知ってた?「乳児にハチミツは危険」 恐怖のボツリヌス菌で死亡例も(J-CASTヘルスケア:2017年3月30日)
  3. ハチミツが原因とみられる乳児ボツリヌス症で男児死亡 各省庁が1歳未満の乳児にハチミツを与えないよう注意喚起(ねとらぼ:2017年4月8日)
  4. 武田斥候笹田源吾と遠州大念仏(かたむき通信: 2016年11月17日)
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