『変化抄』は「へんげしょう」か「へんかしょう」か

賀茂真淵記念館所蔵賀茂真淵書簡(2022年10月26日撮影)
賀茂真淵記念館所蔵賀茂真淵森繁子宛て書簡(2022年10月26日撮影)

「例えば」として幾つかの遠江の名所を数え挙げる内に「入野」「三つ山」が含まれるのは、 賀茂真淵が門人の森繁子しげきこに宛てた手紙です。 入野と記すに当たっては嘗て自らが参加した臨江寺での歌会を鮮やかに脳裏に呼び覚ましたかも知れません。 其の時には臨江寺が面する佐鳴湖の対岸に「三つ山」も望めた筈です。 歌の題材を浜松に住む門人に指導するに際しては幾らか風景の変化しているとは言え、 自らが青年期迄を過ごした故郷が懐かしく思い起こされもしたでしょう。

佐鳴湖

全国的にも名の知られた湖の浜名湖程ではありませんが、其の東、又天竜川の西、両者のほぼ中央に、 遠州灘から内へ約一里程に佐鳴湖は位置し、 太さ五町程、長さ半里程の細長い湖域が東に頭を傾けた格好で、なかなかの湖面を湛えています。 賀茂真淵の没後に数代隔てた県門の竹村廣蔭も佐鳴湖を大層好んだ一人でした。 出自も佐鳴湖の南側に村域を構える入野村の庄屋の家系であれば猶更でしたでしょう。

遠津淡海敷知郡入野の郷𛂂る左鳴浦𛂣
松のう𛃅𛃝𛂙𛂋𛂋𛀄𛁟りて文和風土記𛂋
奈池とあめるこ𛄀𛂄るへし

幕末浜松は入野に生を享けた廣蔭が記し遺した『変化抄』の「左鳴𛂜浦を𛁬𛄀る詞」の冒頭の一節です。 2022年8月27日の記事[H1] で振った通し番号で言えば54番、 此れに「左鳴浦」とも「佐奈池」ともあるのが今の佐鳴湖さなるこです。 同番内に「さ𛂂𛂜浦」とも有り、 さ勿来なき、即ち左様に来る勿れと言いながら 人々の集い来たる目出度い浦である、と洒落ていますから「左鳴浦さなきのうら」と読むのでしょう、 又『文和風土記』は、此れは浜松市博物館出戻り嘱託職員氏が見て「風土記」を言うのに驚いたのですが、勿論「古風土記」では有りません。 文和ぶんなと言えば南北朝時代の年号にて西暦で言えば、 1352年から1356年に当たりますから「古風土記」の話を持ち出しても仕方有りません。 『日本惣國風土記』には早稲田大学図書館所蔵本、津藩有造館旧蔵本、岩瀬文庫蔵書本など諸冊有り、 安政六年の藤原正方書写本を更に近世初頭に古風土記を模して作られた偽書には違いないですが、 幕末に引用されているとなればそれはそれとして低からぬ価値が有ります。 即ち佐鳴湖は其の名称こそ変化すれ古風土記の時代とは言わずとも、 南北朝には既に浜松に確たる水域として其の位置を占めていたのが分かります。

現在の佐鳴湖西岸からの東岸の眺望(2021年10月23日撮影)
現在の佐鳴湖西岸からの東岸の眺望(2021年10月23日撮影)

佐鳴八景

出奔前の若き賀茂真淵が歌会に参加した臨江寺は山号を「少林山」と号し、 廣蔭は「影高くうき世はなれて照すかな少林山の秋の夜の月」と歌い佐鳴湖の名勝の一つとしています。 江戸時代には観月の名所として臨江寺はありました。 当時、湖岸に面した臨江寺から見る佐鳴湖に対岸に浮かぶ月と其の湖面への反映はえも言われぬ美しさであったとか、 而して真淵参加の杉浦家の歌会も催される仕儀と相成ったのでしょう、 廣蔭が「少林山秋月」を詠んだ際には歌会から64年後の生まれながら然程真淵の頃と佐鳴湖に変化はなかったでしょう、 観月と洒落込んだ当時の真淵を想ったかも知れません。 そして臨江寺からは対岸に「三つ山」も望めました。 真淵お薦めの浜松の名所としての「三つ山」を廣蔭も知っていたかも知れず、 此方も佐鳴湖の名勝の一つとして廣蔭は 「山姫のさらせる布とみつ山のあらしによする磯のしら波」と詠んでいます。

廣蔭は上の二句を含む佐鳴湖の名所を八つ詠んでおり、 其れ等は今、佐鳴湖西岸に其々歌碑が佐鳴湖の形に準えて配置され建てられています。

佐鳴湖公園西岸の竹村廣蔭詠佐鳴八景歌碑群(2022年10月12日撮影)
佐鳴湖公園西岸の竹村廣蔭詠佐鳴八景歌碑群(2022年10月12日撮影)

其々の歌碑には以下の如く廣蔭の詠歌が刻まれています。

  • 太田落雁おおたらくがん「かきつらね落ちくる雁の玉づさの数も太田の霧の明ぼの」
  • 大山夜雨おおやまやう「夜の雨のはれ行くまゝに吹く風の音にぞひゞく大山の松」
  • 大良暮雪おおらぼせつ「はらひあへずおもげに見えて見る人はおほらの山の雪の夕ぐれ」
  • 三つ山晴嵐みつやませいらん「山姫のさらせる布とみつ山のあらしによする磯のしら波」
  • 少林山秋月しょうりんざんしゅうげつ「影高くうき世はなれて照すかな少林山の秋の夜の月」
  • 西湖山晩鐘せいこざんばんしょう「湖の山もほのかに見えねとも霞わけくる入あひのかね」
  • 北浦帰帆きたうらきはん「真帆引て舟をならべてきほふなる北浦風の吹くにまかせて」
  • 大屋橋夕照おおやばしせきしょう「ひむがしの浜松の市過来つゝ夕日にわたるをちこちの人」

変化抄

扨、此処迄「変化」なる漢字二字が書名『変化抄』に用いる以外に三回登場しましたが、読者諸氏に置かれては如何様に読まれたでしょうか。 「へんげ」と読んだでしょうか、はたまた「へんか」と読んだでしょうか。

斯く佐鳴八景を撰した竹村廣蔭が著した『変化抄』は、 佐鳴湖のみならず浜松に敷衍された幕末当時を知る貴重な史料として珍重されており、 安政地震を知るにも一次史料[H2] として重要な役割を果たしていました。 此れだけ得難い典籍でありながら、しかし面白いことに此れを何と読むかは定見が有りません。 浜松市立中央図書館の浜松市文化遺産デジタルアーカイブの当該ページ史資料目録データ古典籍の識別番号[※1] を見てみましょう。

浜松市文化遺産デジタルアーカイブより「へんかしょう/へんげしょう」
浜松市文化遺産デジタルアーカイブより「へんかしょう/へんげしょう」

書名は漢字三文字で『変化抄』とされていますが、其の読みとしては 「へんかしょう/へんげしょう」とスラッシュで区切られて二種類が並び記されています。 一体「変化」と言うのは余りにも当たり前の言葉で従前一般に気にも止められず、 学者連にも全く意に介されず、其々が其々に好き好き勝手勝手に呼んでいました。 従って浜松市立中央図書館でも何と読んで好いか扱い兼ねて両説併記しているのでした。 「変化」の読み方は二つ有り、其々が人口に膾炙しています。 詰まり「へんか」抄と読むのか「へんげ」抄と読むのか、 改めて聞かれると所謂専門家にも分からない、とされているのです。 換言すれば此の事案に関する専門家は存在しないと言える状態なのです。

本邦漢字の嚆矢

漢字の読み方について検討するに当たって、本邦に於ける漢字の使用の始まりを考えれば、先ず古文書について思いを致さねばならない点から、 飯倉晴武氏の『古文書入門ハンドブック』を見てみればちょうど関連の言及が22頁にされていますので、 此れを参照に文字史料として一般的に挙げられるものを以下に列挙します。

  • 大宝元年(701年)を最古とする『正倉院文書』
  • 平城京発掘、藤原京発掘で出土した大量の木簡
  • 五世紀と思われる埼玉県稲荷山古墳出土の114(従典拠)文字の銘文のある鉄剣

上記列挙の内、最初の「正倉院文書」は其の下の「木簡」「銘文鉄剣」の二例が出る迄は、文字史料の筆頭でもありました。 又、「正倉院文書」と次の「木簡」については、2017年7月21日の記事[K1] に、歴史学の泰斗 井上光貞 の興味深い発言を取り上げもしました。 濱田耕作が『通論考古学』に 「考古学が活躍できる時代は文献史料の不足する時代である」と説く考古学の面目躍如たる事例でもあり、 如何に戦後考古学が漢字研究に成果を齎したかが分かります。

上記列挙は日本人が能動的に漢字を用いた事例ですが、 遥か以前に漢字は日本に伝わっていたのは志賀島に金印 「漢委奴国王」 が出土した以上明らかです。 金印は『後漢書』に書かれる光武帝が建武中元二年に倭奴国王に与えた「印綬」であるとされており、 即ち、西暦57年には、能動的に用いたか否かは別にすれば、既に本邦と彼の国との間には漢字を含めた交流が物理的に認められるのです。 『古文書入門ハンドブック』にも、 定かにはあらぬものの紙の起源たる西暦104年頃よりは、日本は中国と交渉があり文字や紙の存在を知っていたのではないか、とされています。

西暦紀元より程なくして、漢字は緩慢ながら本邦に数百年掛けて浸透していったものと考えられますが、 では果たして漢字が能動的に用いられる様になったのは何時からでしょうか。 上の「漢委奴国王」金印に於いては、漢字の能動的使用の証拠とはなり得ないでしょうが、 「埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣」即ち国宝「金錯銘鉄剣きんさくめいてっけん」に於いては、 百十五文字の金象嵌銘文から能動的使用が窺いしれます。 時代は「辛亥年」から一般に五世紀の西暦471年と目され、「獲加多支鹵大王」は第二十一代雄略天皇に比定されています。

漢字の字音

漢字の日本に於ける読み方、発音を「字音」と言います。 「字音」とは日本人であれば低学年次から学び親しみ、成人には一般に丸で空気の様に有って当然、当たり前に用いられていますが、考えて見れば不思議な存在です。 「字音」には一般に以下の三つの字音があるとされています。

  • 呉音
  • 漢音
  • 唐音

字音が呉音以前には 上古音 が、また唐音に類する 宋音 も言われ、字音の分類さえ甚だ錯綜しており捉え難き様相を呈していますが、 一般には此の差は伝来の時期に仍るものとされています。 上古音などは万葉仮名の基礎となる字音と言われ、呉音の前に伝来したものとされますが、 教科書でも教える公伝が欽明朝となる仏教と呉音が深く結び着き、 『万葉集』が時代の二世紀も下った奈良時代の成立であることを考えれば、些か訝しくも思われます。 また、唐音は宋音に等しく、其の際は唐音は唐の時代に伝わった漢音のことなどと言われれば何をかいわんやの感さえ抱かされます。 従って今は、上古音は呉音に、宋音は唐音に含めて考えましょう。 すると上の三種類に纏まるのでしたが、此の把握に有用なのが、ベレ出版の 沖森卓也氏の文責になる著者コラム[※2] です。

果たして呉音と漢音とは如何なる関係にあるのでしょうか。 沖森氏に従えば、 先ず「呉音は6世紀ごろに百済を経由して伝来した字音体系」にて「百済から儒学・仏教を受容し」た際に伝来した 「長江下流域に由来する」字音となります。 呉音が仏教と結び付きの深い所以でしょう。 次に漢音は「遣唐使たちが直接日本にもたらした字音体系」にて 「唐の都である長安で話されていた発音を標準音として採用」した字音となります。 「奈良時代末期には朝廷は呉音をしりぞけて、正音(漢音)の使用を学者・僧侶に奨励」 したとされています。

また博覧強記で鳴る呉智英氏の『言葉につける薬』では、 50程の項目の一つとして「明治・大正・昭和」に四頁割かれており、此処に氏ならでは明快な字音への言及が有り、参考になります。 紙幅の都合上でしょう、詳細に渡るものでは有りませんが、簡潔に「呉音、漢音、唐音」について解説がされていますので、 一般的見解の把握の為にも此処に途中一部略しながら引用しましょう。

漢字には、いくつかの読み方がある。 読み方のこの混在は、確かに煩瑣ではあるが、反面、言葉の表現を豊かにもしている。 煩瑣を厭う前に、漢字を体系的・論理的にとらえる努力をすべきだろう。 さて、その読み方だが、大きく音と訓の二つに分かれることは常識だ。 音がまた漢音・呉音・唐音などに分かれる。 …(略)… 唐音は例外的にしか使われないから、音は大きく漢音・呉音の二つだと覚えておけばいい。 細かな例外を憶えて得意がるより、原則をしっかりと憶えておくべきである。 音の区別は、本となった支那音のちがいから来ている。 …(略)… 時代により、地域により、音が少しずつちがう。 日本における漢字音も、伝来した時代に応じて系統がちがうようになった。 …(略)… 漢字音の二代系統である漢音・呉音のうち古い方は呉音である。 これは仏教と共に伝来した。 漢音は呉音より遅れて伝来し、江戸時代に儒教が広まるにつれて漢音が徐々に正統な音とされるようになった。 従って、現在でも、仏教系の用語や僧侶による庶民教育によって広まった言葉は呉音、それ以外は全部漢音で読む、と言うのが一番妥当である。 唐音は、中世以降、禅宗の僧侶や貿易商らによってもたらされた漢字音で、先に言ったように例外的なものである。 唐音は例外的な漢字音だから別にして、漢音と呉音の区別は類推によってかなり判別できる。 言葉は、数学ほどではないにしても、論理的・合理的・体系的にできているからだ。

字音に関する一般的見解は此処等辺りに落ち着くでしょう。 此処に「変化」の読みについて言えば、 「へんげ」は呉音読み、 「へんか」は漢音読みです。 即ち「変化抄」を「へんげ」抄と読むのか「へんか」抄と読むのかは、 「変化」を呉音で読むのか、漢音で読むのか、と一般の問題提起となります。 「変化」を「へんか」と読むか「へんげ」と読むかの考察には「字音」、取り分け 呉音漢音 について探る必要が生じる勘定です。

漢字三音考

「字音」は日本に独特の漢字の読み方にて、少なくとも三種が存在するのでした。 また「字音」は何時しか、最早日本人になくてはならない空気の様であって猶、日本独自の存在となりました。 此処に日本独自であれば「字音」も其の原初は果たして「金錯銘鉄剣」と同じく漢字の能動的使用の嚆矢とも言えるでしょう。 時代を違えて本邦に到来した三種、取り分け「呉音」「漢音」の二種が何故、今に併存して活力高き存在で有り得ているのか、 其々に本邦導入時の漢字とは如何なる関係にあり、如何なる経緯で人々に必要とされ、浸透したのか、 既に少なくとも一千年は経た後となってからは其の原初を改めて捉えるのはなかなかの難事となります。

扠此処で、前述の字音に関する一般論は何時頃辺りに一般的たり得たのでしょうか。 凡そ前例の無い一段高みに到達し得た人は、僻見に少なからず縛られざるを得ない後続より遥かに視野が広くあるものです。 字音一般論を一般たらしめた人物は「字音」なるものを如何様に見ていたのでしょうか。 「呉音」と「漢音」を如何様に見ていたのでしょうか。

此処に字音について考える上で参考から外せない書物が有ります。 江戸期の国学者 本居宣長 の『漢字三音考』です。 此の書の冒頭に漢字と三音の説明が有り 「漢字トハ。字ハ皇國ノ字ニ非ズ。漢國ノ字ナルガ故云フ。 三音トハ。其音漢呉ノ二ツアルニ。近世ノ唐音ヲ加ヘテ云也。」 と有るのは、前段の「漢字の字音」章の原型を見る様で、 宣長以前の研究も有りこそすれ、 今に繋がる「漢字の字音」一般論形成に大きく寄与したのは間違い有りません。 宣長は此の書『漢字三音考』を著した理由として 「漢音呉音ノ来由正不正及ビ三音ノ優劣ナド。諸説紛〻トシテ一定シガタク。 世ノ人コレニ惑フガ故ニ。今此書ヲ著シテ委ク是ヲ辨ヘ定メ。」 としていますから宣長が既に其の始原の曖昧模糊とした字音でも、特に当世風に無い漢音と呉音について深く考究していたのが知れます。

すると恰も『漢字三音考』は「変化」を「へんか」と読むか「へんげ」と読むかと悩む吾人に誂えたかの如くで、 当該問題の検討には特に重要な示唆を与えてくれるでしょう。 従ってこそ『漢字三音考』を此れを鑑みて以下に参照してみたく考えるのです。

日本書紀に見る「字音」の嚆矢

先ずは宣長の紹介に仍って「字音」の始原を追って見ましょう。 『漢字三音考』には「皇國ニシテ漢字音ノ始」が立てられており、其の冒頭に 「軽嶋ノ明宮アキラノミヤ御宇アメノシタシラシメシ應神天皇ノ御世ニ。 百濟國ヨリ阿直アジキトイヒ和邇ワニト云シ二人ノ博士ヲ渡シ奉リ。 又論語ナドノ漢籍カラブミヲモ貢獻せル。是レ大御國ニ漢字漢籍ノ参入マヰレル始メ𬻿。」 と有ります。 此れは慶長15年古活字版『日本書紀』[※3] の「巻第十譽田天皇應神天皇」を参照するに「十五年秋八月壬戌朔丁卯百濟王遣阿直伎」からの一連の文章に仍っているでしょう。 『日本書紀』には引き続き、此の阿直伎あじきが 「亦能讀經典卽太子菟道稚郎子師焉」と経典に熟達している故に皇太子「菟道稚郎子」を指導する立場となり、また 「如勝汝博士亦有耶」なる教育熱心な応神天皇の問いに「有王仁者是秀也」と答えたに仍って 「十六年春二月王仁來之」と翌年春には王仁を招来し、 阿直伎あじきに加えて王仁わに をも指導者として迎えた「菟道稚郎子」は結果「莫不通達トホリサトラ」 となったと書かれており、此れを見た宣長は『漢字三音考』に 「宇治ノ若郎子ワキノイラツコ彼ノ二人ヲ師トシテ。始メテ其ノ漢籍ヲ讀タマヒテ。 皆能ク通達(トホリ)サトリタマヒシヿ正史ニ見エタリ。」 と書いており、曖昧模糊なる状況なれども宣長なりに『日本書紀』を典拠として漢字漢籍到来の経緯を探っている様子が伺えます。 宇治若郎子うじのわきのいらつこは、此の学習開始より一回りを経た応神28年、 「同御世ニ高麗國王ヨリ使ヲ奉遣マダセシ時ニ。其表ヲ讀タマフ二。 無禮ナル詞ノアリシニヨリテ。其使ヲセメタマヒシ」とし、 此れは『日本書紀』の「太子菟道稚郎子讀其表怒之責高麗之使以表狀無禮則破其表」に仍っているでしょう。 宇治若郎子うじのわきのいらつこを、 本邦の漢字漢籍学習の原初と位置付けた宣長は続いて 「抑漢字ノ音ヲ知ラデハ。漢籍ハ讀コトアタハズ。」と書き、此処に「字音」の原初を同時に位置付けています。

従って宣長は本邦「字音」の原初を「當時ソノカミ字音ヲ撰定セシハ。 イヅレノ人ニカアリケムト云ニ。必彼皇子ニ典籍ヲ教ヘ奉リシ。 百濟國ノ博士阿直アジキ和邇ワニナド」 が「皇朝ノカシコキ人等ト共ニ相議テ。唐國ノ音韻ノ旨ニモ背カズ。 此間コヽノ音ニモ甚遠カラヌ。宜シキホドヲ考ヘ撰テゾ定メ」たのだろう、とするのでした。 では阿直伎あじき王仁わにと、 本朝インテリ連とが相謀って「丁度良い処」を選んだのは果たして「呉音」だったのでしょうか、其れとも「漢音」だったのでしょうか。 付いては「サテ其時ニ」、即ち応神天皇の御代に「初メテ定マリシ字音ハ必呉音ナルベシ。」と「呉音」であったろうと、 「漢音」使用の事例は極々「マレ」であるとの一定の論拠から推定しています。

では「漢音」の制定された時代が何時であるかと言うに 「漢音ハ。呉音ヨリ後ニ定マリシヿハ疑ヒナケレ0゙。ソハ何レノ御代ヨリト云ヿハサダカニ知ガタシ。」と、 「呉音」の後と断定するも、時期としては特定し難い旨を述べていますが、恐らく『日本書紀』の継体七年の 「貢五經博士段楊爾」なる記述、及び十年の 「貢五經博士漢高安茂請代博士段楊爾」なる記述、 また欽明十年の 「勑醫博士易博士暦博士等𭁴依番上下上色人」なる記述、及び十五年の 「五經博士王柳貴代固德馬丁安」なる記述から、継体朝及び欽明朝を目して、 「漢音モコレラノコロヨリヤ定マリケム。」としています。 此の時制定された「漢音」が「其時定マレル漢音ハ。即今ノ世」即ち宣長の生きる江戸時代「マデ傳ハレル漢音𬻿。」であるのでした。

以上、参照されただろう『日本書紀』を併記しながら宣長の主張を見て来ましたが、 畢生の大作『古事記伝』の宣長のことですので勿論類似の記述の有る『古事記』とて引いているでしょう、 此の『漢字三音考』に於ける主張を纏めれば、先ず「呉音」が応神朝に制定され、次に継体朝、若しくは欽明朝の頃に「漢音」が制定された、となります。 因みに国宝「金錯銘鉄剣」に於ける「獲加多支鹵大王」に比定される「雄略天皇」は二十一代、応神天皇は十五代、継体天皇は二十六代、欽明天皇は二十九代ですから、 宣長の主張の従えば、「呉音」と「漢音」の制定の間に「金錯銘鉄剣」はものされたことになります。

漢音猶呉音を退けるに能わず

中央の王朝が本格的に其の存在を意識し始めた嚆矢を 宇治ノ若郎子ワキイラツコ阿直アヂキ和邇ワニを両師として招いた応神朝の時期と宣長が見ているのも面白く、 実際、考古学上にも雄略朝には「金錯銘鉄剣きんさくめいてっけん」に能動的に漢字が用いられる様子が見えます。 斯様な環境が彷彿とされては「呉音」が初めに定まり、次に「漢音」が定ったのでしたが、何故「呉音」が有るにも関わらず「漢音」迄定められなければならなかったのか、 吾人も気になる処でしょうが、宣長も然うであったでしょう、当該問題について 「抑初メヨリ用ヒナラヒタル呉音ニテ。事ハ足リヌベキニ。又更ニ別音ヲ並ヘ用ヒムハ。イト煩ラハシク益ナキヿナル二。 如何イカナレバ又此漢音ヲモ用ヒ始メタマヒシゾ」 と疑問を呈しています。 「ヤヽ後ニ漢音ヲイタクタフトバルヽ世ニナリテスラ。讀書ナラヌ常ノ語ニハ。 ナホ呉音ヲノミ用ヒラレタレバ。マシテ上古ハ思ヒヤルベシ。」と、「呉音」に遅れた「漢音」を優先させるべき価値観の生まれた後も「呉音」が猶、巷間広く用いられ続けた様子を描写してもおり、 「呉音」が広く浸透した世に後から「漢音」が割って入ったものの思う様に普及のならないでいる当時を彷彿とせられますが、 当然ながら当該状況の出来を訝しくも思ったのでした。

この漢音が如何なる理由にて「タフト」ばれ、しかし呉音を退けての普及が憚られたのでしょうか。 宣長は此れに明快なる回答を与えています。 先ず何故後の「漢音」が「タフト」ばれたかに付いては、 「初メ呉音ノ定マリシコロハ。イマダ書籍ニウヒ〳〵シキホドナレバ。タヾ是ヲ讀得テ義理ノ通ズルヲノミコソムネトシタルベケレ。 イマダ其音ノ好惡ノサダマデハ及バザリケムヲ。其後年代ヲ歴テ。漸ク書籍ニ熟シタルウヘニテハ。彼國ニ於テ呉音ハ蠻夷ノ音ニして正シカラズトシ。 中原ノ漢音ヲ正シトスルヿヲ所知看シロシメシ。 又唐國三韓ヨリ參レル人ドモヽ。皆漢音正シキ由ヲ申シナドセシニヨリテ。不正トスル呉音ヲノミ用ヒテアラムヿヲ。 アカズ所思看オボシメセルヨリ。漢音ヲモ相並ベテ用ヒ初メタマヒシナルベシ。」とし、 全く以て外交の便宜及び体裁上から「漢音」が優先された状況が描かれます。

引き続きは「漢音」が「呉音」を退け切れなかった理由として 「然ラバ其時呉音ヲバ癈セラルベキニ。ナホ兼ネ用ヒラレシハイカニト云ニ。呉音ハ久シクナリテ。 ソノカミ既ニ天下ニアマネク用ヒナレタルウヘニ。 皇國ノ音ニヤヽ近クシテ。實ニハ漢音ヨリヤヽマサリタレバ。必ズ廢セラレ難キ自然ノ勢ナルヲヤ。」と述べ、 既に用いられ始めてから久しい呉音は其の上日本語の発音に親和性の高ければ如何にも廃し難かったのだろうと論を展開しています。

応神天皇は未だ神話に近い時代にてなかなか西暦に直し難いものの、 例えば参考の為に一説を用いて神功紀55年を近肖古王崩御の西暦375年と比定[※4] すれば、神功皇后崩御の翌年の応神元年が西暦390年、「呉音」の制定された応神15年は西暦404年となります。 また継体七年は西暦513年、十年は西暦516年、欽明十年は西暦548年、欽明十五年は礼暦553年、 また「金錯銘鉄剣」は「辛亥年」から一般に五世紀の西暦471年でした。 宣長の言に従えば西暦400年頃に制定された「呉音」が西暦471年には鉄剣に金象嵌される銘文にも用いられるなどして広く普及して、 後に外交の便宜、体裁上、西暦500年から550年頃に採用された「漢音」は既に100年から150年の長きに渡り用いられ併せて日本語とも親和性が高く、 普及に至らなかった、となります。 唯、少し百年とは一定の文化が普及し根付く為には少し短い気がします。 「雄略紀」以前を干支二運引き上げて宣長が考えていたとすれば二百年にはなりますが、それでも舌足らずな感を受けます。

古代字音の継承と是正

持統天皇ノ御世ニ。音博士唐ノ續守言薩弘恪ト云フ見エテ。其後ツネニ大學寮ニ此職二人ヅヽヲ置テ。字音ヲ教ルヿヲ掌ラシメラル。」 と宣長が書くのは、時代を下るも「字音」は外交上の必要にて政治上重要なる位置を占めたと受け取れるでしょう。 確かに、国立国会図書館の『日本書紀巻三十』慶長古活字本を閲すれば、 持統3年(689年)6月に「賜大唐續守言薩弘恪等稻各有差」と「續守言」と「薩弘恪」の下賜品を受けた二人の渡来人が登場します。 此の二人は此の翌々年、持統5年(691年)9月に「賜音博士大唐續守言薩弘恪書博士百濟末士善信銀人廿両」と有る様に 「音博士」として銀二十両を下賜されています。 更には翌年持統6年(692年)12月には「賜音博士續守言薩弘恪水田人四町」と此処では水田4町を賜っており、 「音博士」として可成り厚く遇されているのが分かります。 真名で表記される六国史の皮切りたる『日本書紀』の肝煎り持統天皇自身の「持統紀」に「音博士」と有り、 厚遇を受けたのであれば朝廷に「字音」を以て貢献したと考えるのが自然ですし、以て宣長も然う捉えたのだと思います。 参考の為に字音に当該箇所を抜粋し、赤い傍線を施して以下に記し置きます。

『日本書紀巻三十』(国立国会図書館)を加工して作成
慶長15年古活字版『日本書紀』巻第三十(国立国会図書館デジタルコレクション)

又、宣長が「字音」制定の時代とするのは漢字、漢籍の導入期に於いての必要性からでしたし、更には「漢音」優先は外交上の必要からでしたが、 此の時代に特徴的と思われるのは「正史」の登場です。 一説に天武十年の勅とされる正史編纂の開始は西暦682年にて、「漢字」の導入西暦404年より3世紀弱を以て能動的使用が熟れ始めたことにも仍るものと思われます。 「字音」が重要な役割を果たさなかった筈は無いでしょう、以て「音博士」は設けられたのでした。

処で宣長は「養老四年ニハ。比者コノゴロ𡰱妄ニ作別音。 宜シ下漢ノ沙門道榮學問僧勝曉等。轉經唱禮。 餘音ハミナメヨトイフ詔ナドモアリキ。」とも書いており、 兎も角も「呉音」「漢音」の定った後、時代が下るに連れ等閑にされては、新「字音」の乱立される様子が窺われます。 「唐音」は此の様な中を生き残った新字音かも知れませんが、朝廷に取っては面白からぬ事態で有った様で使用の停止が命じられています。 宣長が以降に展開する各朝に於いて立てられる関連人物や関連詔勅を以下に時系列を追って列挙してみます。

  • 續守言、薩弘恪(持統天皇ノ御世)
  • 道榮、勝曉(養老四年
  • 袁晋卿(神護景雲ノコロ
  • 延暦十一年ノ敕。明經ノ之徒。不正音。發聲誦讀。既ニ致訛謬。熟-習セヨ漢音
  • 延暦十ニ年ノ制。自今以後。年分ノ度者。非漢音。勿ルヿ得度
  • 朝野朝臣鹿取。少ク𬼀大學。頗ル渉史漢。兼テ知漢音。始テ試ラル音生
  • 弘仁八年ノ敕。宜シ下三十以下聽令ヲ之徒。入-色四人白丁六人。於大學寮使上レ漢語
  • 仁明天皇。能ク練漢音。辨ヘタマフ其清濁
  • 善道朝臣眞貞。以三傳三禮業ト。兼テ能ク談論ス。但シ舊来不漢音。不字ノ之四-聲。至テモ於教授。總テ用世俗蹐𧿕ノ之音(ヲ)1耳。

処が此の後に宣長は「コレラニ漢音トアルハ。ミナ其時ノ漢國ノ音ヲ云ルニテ。後世ニ唐音ト云ト同ジ心バヘナリ。 此方ニテ古ヘ定メラレタル漢音ノヿニハ非ズ。ソノカミ既ニ此方ニテ定マレル字音アル故ニ。ソレニ對ヘテ漢國ノ音ヲ漢音ト云ルナリ。」 と記し、詰まり此れ等六国史に用いられる「漢音」は飽く迄「漢国」の発音であって、「字音」の「漢音」では無い、と主張しているのでした。 当世風の言葉に直せば「ネイティブ」とでも言えば良いでしょうか、和人ながら朝野鹿取も仁明天皇も善道眞貞もネイティブ宛らの発音を操る人々が 既に普及し切っている「漢音」について態々学ぶべき必要もなければ 当該事項を国史に記す迄も無く、仍って此処の「漢音」は「字音」の「漢音」では無い、と言う建て付けです。 ではいにしえに定められし「呉音」「漢音」は如何なったかと問われれば、 国史に「訛謬」又は「世俗蹐𧿕」の音とされているのが其れである、と宣長はします。

国史に著されるを、 ネイティブ音を操る人々を立て彼等のスキルを活かし、且つ政令も立てては、 以て乱れた「字音」を正せ、と言う朝廷の意向が窺える、と宣長は読み解いているのでした。 更には乱れた「字音」には当世風に乱立した新「字音」だけではなく、古来制定された「呉音」「漢音」さえも「訛謬」又は「世俗蹐𧿕」の音として正される対象と見做しています。

処が、宣長が「シバ〳〵制アリツレ0゙。ソハモトヨリ皇國ノ音ニ甚遠クシテ。タヤスク學ビ得ガタク。 又タトヒ學ヒ得トイヘ0゙。侏離鴃舌不正鄙俚ノ音ナレバ。實ニハ王公貴人ナドノ讀書ナドニ。サラニ用フベキ者ニ非ルガ故ニ。 其音ハツヒニ世ニ行ハレズタエハテヽ。舊来ノ此方ノ漢呉音ノミ。弘ク天下ニ傳ハリ。 其二音ノ中ニモ。呉音ハヤヽマサリテ。皇國ノ音ニ近キ故ニ。殊ニ遍𛂘ク行ハレ来ツル𬻿。」と述べる如く、 遂に乱れた「字音」は修正されることなく、「訛謬」又は「世俗蹐𧿕」の音の乱れた「字音」の一つたる古く定められた「呉音」「漢音」が、 中にも「呉音」の優勢を以て相変わらず世の中に用いられる状況が連綿として宣長の江戸の世に、そして現代吾人の世に出来するに至るのでした。 此処に、日本書紀に見る「字音」の嚆矢と立てた項目内にて、 いにしえの渡来人インテリと本朝インテリ連とが相謀って「丁度良い処」を選んだとする布石が活きて来ると言う筋書きです。 斯くて此の宣長の論が原型を為し、細部を端折られ当世風にアレンジされながら現代に至り「漢字の字音」一般論形成を招来したのだと思われます。

三つの違和感

本居宣長の『漢字三音考』のお陰で本邦「字音」の経緯について、有り難くも大分整理がついた様に思います。 唯、少しく違和感の残る面が無いでも有りません。 一つには「漢音猶呉音を退けるに能わず」項目の末尾に些かの訝しさを表した点にて、 「呉音」制定から「漢音」制定に至る時期が百年、長くても二百年と言う言葉の変化を促すには余りにも短い期間で有ることです。 日本民族の基本的属性の一つたる日本語へ政令に仍って制限を強いるのが難しいのは、 宣長自身が度重なる政令に仍っても「呉音」「漢音」を退け得なかった、とする処です。

一体、字音の普及に百年、二百年は長い時間であったか、 此処で再び博覧強記の呉智英氏に登場を願いましょう。 『言葉につける薬』の「はじめに」には以下の記載が有ります。

日本語が乱れている。ほとんど毎日のように、あらゆるところでそう語られている。 …(略)… これは本当だろうか。日本語が乱れている。確かに、私もそう思う。しかし、それは口語表現の、とりわけ俗語・卑語が乱暴で有ることには関係がない。 俗語・卑語は乱暴であるからこそ俗語・卑語なのであって、俗語・卑語が上品であったらそれこそ話にならない。 スケバンの少女が「バカヤロー、てめぇの金玉たたきつぶすぞ」と叫んだった、スケバンなのだから当然である。 ここには少しの日本語の乱れもない。文法的にも合っている。

又、同書に立てられる「孔子の「可もなく不可もなく」」項目には、「可もなく不可もなく」を 出典の『論語』微子びし篇に用いられる意味と 現代の意味との違いに触れた上で、以下の如く述べられています。

先の訳文中の「隠居」「放言」は、全く原文のままである。 「可もなく不可もなく」とちがって、ごく普通の二字熟語であるためか、かえって用法が変化していないのだ。 「現役を引退したジャーナリストが田舎に隠居し、自費出版の同人誌でこれまでのしがらみにしばられない正論を放言する」 というような文章は現代文としても少しもおかしくない。 二千五百年の時を越え、日本と支那の民族のちがいを越え、同じ言葉が同じ意味のまま使われているのは、考えてみれば感動的でさえある。 書き言葉は話し言葉より意味の固定性が強く、特に漢語は、日本に輸入されて書き言葉として使われるようになったため、 意味が永続しているものの方がむしろ多い。

日々移ろい行くのは、呉智英氏言う処の俗語、卑語に属性の近い、流行語、隠語で合って、全くスケバンの乱暴な言葉と一般で、移り行くのが当たり前であって、だからこそ、流行語、隠語なのです。 しかし如何したことか、呉智英氏が乱れている日本語に疑義を抱く様に、「言葉は変わるもの」なる言説の蔓延に屡々辟易とさせられます。 此れは如何やら百害あって一利無いテレビの影響の様で、 恐らくはイグアナ芸人の虚言に世の中はたぶらかされているのであって お巫山戯を生業とする者のお巫山戯を世の中が盲信するのは誠に残念でなりませんが、此れがテレビというものです。

例えば明治維新から此処現代が凡そ150年余り、言葉は変化しているでしょうか、 相変わらずべらんめえ口調で喋る江戸っ子は果たして如何程変わった言葉を発しているでしょうか。 古典落語の熊さん、八っつぁんの喋りは現代の浅草で果たして言葉として通じないのでしょうか。 どちらかと言えば戦後、新聞とテレビ中毒の日本史上の鬼っ子「団塊の世代」が闊歩した昭和時代の方が言葉は変わってしまっているでしょう。 赤信号は皆んなで渡れば怖くないからです。

其れでも江戸時代の言葉と現代の言葉は全く変わってしまっているとイグアナ芸人を信じて已まないテレビっ子遅鈍諸氏には 『夢酔独言』をご覧にいれましょう。 勝海舟の父親[K2] が身内向けに戒めを書き残したもので幕末天保14年(1843)の江戸っ子の生の言葉が知られます。 以下に冒頭と、十四の歳に家出した途次の件、勝海舟が犬に噛まれた件の三箇所引用しておきます。

おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。 故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能〳〵不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。
所はわすれたが、或がけのところに其ばんは寝たが、どういふわけか、がけより下へ落ちた。 岩のかどにてきん玉を打つたが、気絶をしていたと見へて、 翌日漸々人らしくなつたが、きん玉が痛んであるくことがならなんだ。
息子が九つの年、御殿から下つたが、 本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやつたが、 或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。

此の文章に言葉が現代では丸で変わってしまっていて理解が及ばないとされるのであれば先ずは相当拙い事態であり、お察し申し上げます。

コミュニケーションの道具たる言葉の本質からして変化は基本的に拒まれるものです。 何となれば伝達の為の言葉が度々変わってしまっては伝達が儘ならないからです。 流行語、隠語が数年単位で移り変わる泡沫うたかたの様であるのは、 独善的とは言え用いて優勢的位置を確認する為のexclusiveエクスクルーシブな要素を求められる道具でもあり、 又仲間内にあって仲間意識を醸成させ連帯を確認する道具でもあって、 従ってこそ流行語、隠語であるのですが、此れすら限定的とは言え一定の範囲内で通用するべき要素を保っています。 移行が早くあれば其れは、俗語であり、卑語であり、隠語であり、流行語にて、イグアナ芸人の得意とする処です。 此れ等ならぬ単語は基本的には変化を拒みます。 特に漢語となれば其の形どころか意味さえ、応神朝の遥か以前の春秋戦国時代から変わらないものの見られるのは呉智英氏の指摘通りです。

単語でさえ斯様なれば、文法は尚更です。 スケバンの俗語、卑語にさえ文法は確たるものにて毫も乱れは見られません。 呉智英氏が電車で乗り合わせたコギャル達が「乏しいボキャブラリーでひとしきり話をはずませ、やがてそのうちの数人が隣の駅で降りようとする」際に、 「期待感に胸をはずませ」、「言うぞ、言うぞ、」と待ち兼ねた「チョーさようなら」は遂に彼女達の口からは発せられなかったと 『犬儒派だもの』に記している通り、 女子J高生Kは決して古来からの伝統的文法を間違えたりしません。 今は少しばかり年寄り向けの言葉となるも当初から「チョー」は程度の甚だしさを言う副詞として機能して微動だにしてはいないのです。 間違えて出鱈目を言い、日本語を乱している内にも取り分け非道いのは、度々彼女等を揶揄する番組を構成するテレビ局であり、 進行しながら此れをわらうアナウンサー連です。 特にテレビ局のアナウンサーの鹿爪顔の日本語には耳を塞ぎたくなることが度々です。 此れに不満の有るアナウンサーやメディア関係者には以て『言葉につける薬』并に 呉智英氏の言葉関係の他書をお薦めします。 急度自ら公衆に放つ言葉に其れ等が散りばめられているのを見るでしょう。

言葉の骨法たる文法は、表面層的部分を司どる単語にも比して滅多に動きません。 生物せいぶつたる人の道具であれば 生物なまものたる言葉も移り行きはします。 しかし此の変化には、此れも人の都合に仍って長い長い年月を必要とするのです。 以上鑑みても宣長の主張する「呉音」と言う「字音」が僅か百年、二百年で「漢音」と言う「字音」を退け難い程迄に巷に普及したとは些か考え難く思われます。

『古事記』序文

もう一つは正史導入です。 天武朝から持統朝に当たり重要な位置を占め、改めて必須となったのが「字音」です。 此処に宣長の評価は芳しからぬものの[※5] 国宝真福寺本『古事記』[※6] の太安万侶に仍る序文を見てみましょう。

国宝真福寺本『古事記』上「序」抜粋(国立国会図書館デジタルコレクション)

『古事記』序に「於是天皇詔之」(図内①)とあるのは天武天皇の詔にて、 「斯乃邦家之經緯王化之鴻基焉」(図内②)と、本邦の歴史こそ本朝の 鴻基こうき、即ち大業の基本であるとし、であるからには「撰錄帝紀討覈舊辭削僞定實欲流後葉」(図内②)、 即ち、過謬の累増する諸家の帝紀、旧辞を 撰錄せんろく討覈とうかくして、 偽りを削り、真実を定めた上で後の世に残せ、としているのは正しく正史編纂の勅と言えるでしょう。

さてこそ登場するのが教科書にてお馴染みの「稗田阿礼」にて、 一目見て読めぬものの無ければ、一旦聞けば覚えられぬもの無しと両手放しで其の聡明さを安麻呂に言わしめるよわい28の青年を以て 「令誦習帝皇日繼及先代舊辭」との天武天皇の勅が下されたのでした。 稗田阿礼は正しく「度目誦口」と読んで発声のならないものの無い異才であったので、 従って「誦習」させよとの勅が下されたのであれば「字音」が必須にならない筈も有りません。 漢字の導入時に必要とされた「字音」は外交上の必要からでしたが、 此処に正史編纂の必要上から改めて「字音」が重要視されたのは明らかです。

此処で宣長の言に従えば「字音」は既に第二十六代継体天皇、 第二十九代欽明天皇からは、第四十代天武天皇は十代、 一世紀半以上を経ていますから「漢音」に違いないでしょうが、当該記述は『古事記』には見られる筈もありませんでした。 兎も角も本邦正史導入に当たり孰れかは別にして「字音」は必須であったのでした。 延いては此処に「字音」は単なる外交上の道具ツールに在らずして、 国家としての正統性を求められ始めたとも言えます。

斯く重要と思われる「字音」のraisonレーゾン d'êtreデートルの転機にしかし宣長の捉え方は 本記事当該項目を「古代字音の継承と是正」と題目たらしめた程度であり、 更には其の中の時系列の冒頭の一要素に過ぎない重みしか与えないのに対して違和感を覚えるのです。

日本紀畧に見る「字音」と平安遷都

字音が明々白々に「呉音」と「漢音」に分化、書き分けされるのはいつなのか、 管見に「漢音」と書かれるのを知る、六国史抜粋の『日本紀畧』から桓武天皇の治世に当たる『日本後記』を紐解いて見ます。 19世紀末に経済雑誌社から発刊された『日本紀畧』活字本を見れば、 先ず字音に関する文字列の見えるのは巻第一の延暦11年(792年)閏11月20日の「勅。明經之徒。不可習音。發聲誦讀。旣致訛謬。熟習漢音。」とあり、 習いたる字音を用いるのを禁じて、「漢音」と明記し、此れに習熟せよ、と言う勅が発せられています。 此れこそ宣長が引いた「延暦十一年ノ敕」でしたが、 宣長は此の「漢音」は当世言う「漢音」に在らずして当時の漢国ネイティブの発音である、と主張していたのは前述の通りです。

次に見えるのは巻第二の延暦12年(793年)4月28日で「制。自今以後。年分度者。非習漢音。」にて、 此れも宣長が「延暦十ニ年ノ制」として引く処ですが、当世言う「漢音」でない、と主張するのは同じくです。 此処にもう一つ、三つ目の違和感が感じられるのです。

『日本後記』に興味深いのは此れ等に慣れた「字音」を捨てさせ、所謂「漢音」を強いた時期です。 引き続き『日本後記』を閲すれば、延暦12年正月15日に「相山背國葛野郡宇多村之地。為遷都也。」と有り、 翌月2月2日には「遣参議治部卿壹志濃王等。告遷都於賀茂大神。」と有る「遷都」は「山背國」への遷都ですから「平安遷都」を指します。

更に翌月3月1日には「幸葛野巡覽新京。」、7日には「新京宮城之内。百姓地卌四町給三年價直。」と有り、 12日には「令…築新京宮城」と一定以上の位の者に役夫を提供させ新京に宮城を築かせています。 4月になると2日には「幸葛野」と実際に新京に様子を見に出向き、5月23日には「令諸國造新宮諸門」と門の造築を命じており、 7月25日には「巡覧新宮」と新宮を見て回り、一定程度の造成の成ったのを見て取ったのでしょう、 9月2日には「班給新京宅地」と宅地を藤原氏などに与えていますから貴族などの屋敷の造成が始まったものと思われ、 其の様子を見る為でしょうか、11月2日には再び新京を巡覧しており、此の結果を以てでしょう、 12月18日には長岡京の宅地売買を禁じる勅を出していますから、 延暦12年一年を急ピッチで以て新京が造成された様子が窺われます。 年が変わって延暦13年(794年)も新京の造成は続けられ、4月28日には完成の近付いたであろう新京を再び巡覧し、目処の付いたのを自ら確認されたでしょう。 巻第二の末尾には「丙子。發諸國夫五千掃新宮。」とあるのは、6月13日条に甲寅とあり、すると文字の掠れて見難い「癸亥」に傍に振られるのは「廿二」であり、 すると「丙子」は巻第三に記されるべき7月6日ではないかと思われます。

巻は第三に移って7月1日には「遷東西市於新京。且造㢆舎。且遷市人。」と市を新京に整え、 9月28日に「奉幣帛於諸國明神以遷于新都及征蝦夷也。」と新京への宗教的な備えと同時に蝦夷征討を祈るものか祝うものかは不明なものの記されています。 因みに此の時期は坂上田村麻呂の活躍した頃で、延暦10年1月8日に「従五位下坂上田村麿於東海道。」と任官の、 延暦12年2月21日に「征夷副使近衛少將坂上田村麿辭見。」と進発の旨の記述のあり、 此の蝦夷征討の記述の数ヶ月前の延暦13年6月13日には「副将軍坂上田村麿蝦已下征蝦夷」と記述されていますので、 9月28日の条は戦闘中の征蝦夷軍の戦勝祈願の記述であるのでしょう。 平安遷都は正に蝦夷征討戦と同時期に並行して実施されていたのでした。

そして遂に延暦13年10月22日、満を持して「車駕遷于新京」と相成りました。 「漢音」の強制は正に「平安遷都」と「蝦夷征討」と言う大事業と並行すると言う大事な時期に、詔勅を以て実施されたのでした。 此処に桓武天皇の強い意志を感じるのは其れ程可笑しいことでは無い気がします。

猶、興味深いのは桓武天皇と言えば平安遷都の十年以前に長岡遷都を敢行しており、 二度目の遷都となるのでしたが、長岡遷都の際、『續日本紀』の巻第卅八の「延暦三年十一月十一日」の 「天皇移幸長岡宮」の前後には字音についての言及が見当たりません。 長らく続いた南都からの遷都の遣り直しに当たって恐らくは万全が期された中に併せて「漢音」の強制は為されています。 延暦十一年、十二年の「漢音」の強制は朝廷に取って遷都、蝦夷征討と同時期に実施しなければならない重要事項と取って構わないでしょう。 しかも二年に渡り念を入れて、先ず儒教の試験を経て官途に就く者に「漢音」を強い、次には「漢音」を学ばざる者の得度を禁じています。 孰れも当時の本朝を代表する教養人に「漢音」を強いているのでした。 「明經之徒」を現代で言う官僚、仏教者たる「度者」を現代で言う学者と見立てれば、 先ずは足元の官僚に、次に周辺の学者に「漢音」を強いて何某かに万全を期している様子が伝わります。

何某かとは畢竟、遷都、北伐とに通底する、国体の確立であると考えます。 従って此処に書かれる「漢音」は外交の必要上からネイティブの発声を学ばせる単なるツールとしての発音に在らずして、 「字音」を国体の要因の一つとして位置付け官僚、学者に必須の教養として強制したものと考えられます。 此の如き強い権力者の意志が感じられる詔勅に、宣長の扱いが余りにもさらりとあっさり恬淡としている様子に違和感が感じられるのです。 外交上に言語者が操るに妥当な当時の本場の発音ならぬ国体の一要因としてあれば字音は、其れこそ宣長の『漢字三音考』の主張にあるように「ちょうど良い」和音、 本邦の「正音」に近付けるを以て制定された「字音」であったでしょう。 其れこそが「漢音」であり、宣長の時代にも謂う所の「漢音」であると考えるのが妥当と思われるのです。

呉音と漢音の関係

以上、言葉の変化に要する期間、正史導入に於ける位置付け、国体の構成要素の一つ、此れ等から感じられる違和感は、 宣長の字音の制定時期と国史に於ける「漢音」の意味付けに因ります。 如何様に考えれば此の違和感を払拭し得るのかは、従って字音の制定時期と「漢音」の意味付けの変更です。

「呉音」は或る日突然生まれたのではなくして、日本と朝鮮を通じた中国との交通上、次第次第に本邦に浸透していったものでしょう。 西暦の開闢して間も無く、志賀島金印「漢委奴国王」抔を通して其の存在は、 九州北端から徐々に徐々に日本人に知られるべく列島に広がって行きました。 西暦紀元より程なくして、漢字は緩々たるも本邦に数百年掛けて浸透していったものと考えられます。 字音も其れに遅れながらも徐々に徐々に広がり、其の音を後世「呉音」と称したものと考えられます。 従って「呉音」については区切られた一定時期に限って摂取したものと考えるのは不適当と考えます。 すると或る時期に「呉音」が到来し、続いて次の或る時期に「漢音」が到来した、とする一般認識も些か訝しく思われて来ます。 先ず宣長が応神朝に為されたと言う「呉音」の制定は無いものと考えるのです。

では「漢音」は如何にと慮るに、「呉音」が然うであれば此れも一定期間に急速に摂取していると考えるのは適当ではありません。 従って継体朝、欽明朝の孰れかに制定されたとする宣長の主張は退けられなければなりません。 大陸の広きと王朝の交代、交通手段、ルートの移り変わりに仍って本邦に伝わる発音は常に同じきものとはならず、 矢張り緩々と「呉音」に遅れて当時の中央たる北方の発音が広がっていったものでしょう。 悠揚として漸く本邦に広がったのが「呉音」にていつしか恐らくは欽明朝には仏教典と共に仏教者に広く浸透したのではないでしょうか。 そして「呉音」と「漢音」は「交錯」しながら尚「呉音」の優勢を以て広く普及しました。

処で此処で用いた「交錯」なる語彙は上に引いた呉智英氏の『言葉につける薬』の 「明治・大正・昭和」からの引用とは別のくだりでの使用を拝借したもので、 「言語」の読みを「げんご」とした時、此の漢音、呉音が混在している読み方を「交錯読み」と呼ぶのが記されるに仍っています。 単語に於いて、訓読と音読を交えた変則読みとして湯桶読み、重箱読みが言われますが、 漢音、呉音の入り混じった此の如き呼び方は、従来聞いたことが無く面白く思ったからです。 大体が「湯桶読み」や「重箱読み」なる言葉の有って「呉音」と「漢音」の入り混じった読みについては人口に膾炙したものが見当たらず、 呉智英氏が此処に「交錯読み」と捻り出しているのが先ずは致し方なくも妥当な命名とも思いはするのですが、 些か洒落が効かぬ態であるのに音読みに対する一般の無頓着さが窺えもします。 若しかしたら此方にも研究分野としての沃野が広がっているのかも知れませんが、 取り敢えずは或る程度の妥当性を以ての仮置きとして、本記事には漢音、呉音の入り混じった読み方を「交錯読み」と呼んでおきましょう。

扨、大凡当時の学究者たる仏教者に学問の必要上から普及し、馴染んだ頃に覆い被さる様に遅れて「漢音」の基たる北方の発音がやって来ました。 既に継体朝、欽明朝には来るものの普及には未だ遠かったでしょうが、民間の交通には当世風の発音が必須となれば知られる処の発音が 漢字の読みにも適用され始めたのではないでしょうか。 更には遅れて遣隋使、遣唐使などの国交も普及に後押ししたでしょう。 正史の導入は徐々に普及しつつある当世風大陸北方の発音の日本語への適用、即ち「漢音」が用いられ始めた後でした。

正史の導入に至っては必須となった「字音」は混乱した中から限定的に取捨選択される必要があったでしょう。 即ち、此処に於いて「漢音」が制定され始めるべく「音博士」が重用される次第となったのでした。 しかし其れは正史編纂と同じく、宣長の主張する様に王朝一代にて達成される程の小さな事業ではありませんでした。 何となれば『漢字三音考』に「漢音ヲ取レルハ。タヾ日本紀ニ。麻摩ヲ。 寐彌ヲ。文矛ヲ。 謎ヲニ用ヒタルナド是𬻿。 サレド他ノ古書ニハ。此等コレラノ例ハナキコト𬻿。 凡テ日本紀ノミハ。神ノ名人ノ姓名地名ナドノ文字モ。他ノ書ドモノ例ニ異ナルモノ多キナリ。」 とある如く正史の嚆矢たる『日本書紀』に苦労しながらも何とか「漢音」を採用しようと努力するものの儘ならない様子が窺える様な状況であったからです。 宣長は自らの主張の如く継体朝、欽明朝に既に「漢音」が制定されてあったとするのであれば、 何故正史たる『日本書紀』が正統たる「漢音」で埋め尽くされていないか疑義を発すべきでした。

歴代王朝に優秀な頭脳が集結し、当世風の大陸発音も鑑みて其れは国史編纂の累ねられるに合わせて徐々に形を成して行きました。 其れは辞書などの物理的な物にはなく編纂委員の間の共通認識みた様な物ではあったでしょうが、 王朝の代も重ね漸う或る程度の形になった「字音」は平安遷都に合わせて使用が正式に発令された、此れが「漢音」であったと考えます。 約めれば錯綜する「呉音」の中にも特に適当なものを抜粋して持統朝に「漢音」として定める事業を開始して、 桓武朝に完成した、とする見方です。

系統を意にする「字音」は比較的当世風の発音に近いものを選って正統字音の「漢音」となし、其れ以外の慣れたる音は「呉音」とされ、正統ならざる位置付けを与えられたのでしょう。 謂わば「漢音」は「呉音」の抜粋として在りました。 抜粋の規則性に当世大陸中央風の発音に近いものが選定されたものと思われます。 選定と言っても辞書に編纂されるものではなく、正史編纂や朝廷上位の貴人の諮問に答えて徐々に共通意識が醸成されるものであったでしょう。 この時、突然「音博士」達が「字音」を「正音」の仮名に置き換えるべく其の場其の場で対応した場合も有るでしょうし、 漢字の通用する内に既に「和音」化して「正音」に近いものの有って、其れ等から妥当なものを選定したのでしょう。

国史には当然正統たる「漢音」が用いられなければなりませんでした。 正統としての「漢音」の事例を挙げれば例えば年号が有ります。 「化」の付く年号は「大化」「文化」「弘化」の三つありますが、全て「か」と漢音読みします。 年号の読みも又難しい問題にて、呉智英氏の『言葉につける薬』では、 明治、大正、また昭和は条件付きの共通点として漢音と呉音が入り混じった読みであるとし、 平成で漸く漢音で一貫した年号読みとなった旨、記していますが、出版時には無い現在の年号「令和」は如何かと言えば、 「令」は漢音が「レイ」で呉音が「リョウ」、また「和」は漢音が「カ」で呉音が「ワ」なればまた呉智英氏謂う所の交錯読みに舞い戻ってもいます。 扨「化」を含む年号に於いては、三つとも「平成」と同じく漢音で一貫してはいますが、 近世の「文化」「弘化」はまだしも年号の始原たる「大化」にも改めて問われれば、 果たして「漢音」か「呉音」かの議論は有るかも知れず、 現代一般的に全て「か」と呼び習わせられるに正統たるべしとされる長きに渡る方針が影響を及びし、活きている如く感じます。 此れは天皇諡号たる第九代開化天皇、第二十八代宣化天皇の読みにも一般です。

正史導入には当然ながら国体としては意識し切れないながらも「字音」の存在が有ったでしょう。 其れが奈良時代一時代の猶予期間を経て後、確たる存在を示したのが桓武朝に於いてでした。 持統朝に見られる「漢音」の採用は、醸成を重ね遂には桓武朝に至り、必要欠くべからざる施策として、北伐、平安遷都の最中に勅されたのでした。

仏教と「呉音」

宣長の言う如く本邦への「漢字」の導入に於いては「字音」は必須でした。 「字音」とは宣長に従えば「漢字」の本来の発音を本邦の「正音」に近付けた「和音」たる発声で仮名表記の可能となるものです。 此の選定については、宣長はいにしえの渡来人インテリと本朝インテリ連とが相謀って「丁度良い処」を選んだと主張するのでした。 其の為に『漢字三音考』では目録の冒頭に「皇國正音」を立て、 三つ目には「外國音不正事」を設け、 順を追って論を説いているのでした。

成る程「字音」たるものの原義について肯んぜさせられるのでしたが、 但し宣長の主張する此の「丁度良い処」を選んだとする字音の選定については少しく変更を余儀なくされるものと考えます。 「呉音」に於いては応神朝の渡来人インテリとして 阿直アヂキ和邇ワニ が在り、継体朝には、段楊爾、高安茂、また欽明朝には、王柳貴、馬丁安が在りました。 彼等少数が幾ら高度な頭脳を持つとは言え短期間に「字音」を制定するのは難しく思われます。 現在でも欧米語を日本語表記の仮名に移す場合には表記揺れが大きく有り、 例えば長音の挿入、無挿入、又拗音の小文字の省略は勿論、 人名に限ってさえ、長音の「Jimmyジミー= Page」か「Jimmyジミー= Page」か、 拗音の「Waltウォルト= Disneyディズニー」か「Waltウォルト= Disneyズニー」か、など省いても、 「Ronaldロナルド= Reaganーガン」か「Ronaldロナルド= Reaganーガン」か、 「Steveスティーブ= Jobsジョブ」か「Steveスティーブ= Jobsジョブ」か、 「Georgeジョージ= Harrisonハリ」か「Georgeジョージ= Harrisonハリ」か、 枚挙に暇が有りません。 上古も今も変わらず広く本邦に紹介されるには人名には仮名表記が必須となりますが、少なくとも現代では少数間で決められた規則に沿ってはいるものではありません。 また呉智英氏は著書『ロゴスの名はロゴス』の中で「フイルム」と「フィラメント」を例示して、後者は日本語として成熟してはいない故に、 日本語にはない「fi」音が残っている、と述べてもおり、此れは日本語の中に溶解するに付け外来語が「正音」化するに当たっては多勢間に練られてこそ初めて齎される意でもあり、 此方も短期間での少数の有識者間のみにての外来語の「和音」への昇華の決定を否定してもいるでしょう。 畢竟「字音」化の安定は個人の短期間に為し得るわざではないのです。 此れは三つの違和感の内「言葉の変化に要する期間」のバリエーションと言えますが、 では何の様に始原の「字音」は吾人に共通認識として植え付けられたのでしょうか。

細かい話をすれば「呉音」と「漢音」には同じ音も多く、又年号にも当たり前に見られる様に渾然と交錯読みされるについては、 綺麗に截然と切り分けられるかと言えば然うと許り言えないようにも思え、 実際宣長の言う「漢音」選定の時期には恐らく本邦に上陸した「呉音」や「漢音」は入り混じりながら在ったでしょうが、 注目すべきは、其れでも本邦に初の体系的学問として導入された仏教に於いて「呉音」が主流であったことです。 後に伝統的な物に迄昇華した学問の「字音」に比して、 外交上、民間交流や官僚の公式派遣に於いては次第に「漢音」が導入されたでしょう。 時代は下り桓武天皇の御代『日本後記』冒頭から、延暦十二年の勅に「明經之徒。不可習音。發聲誦讀。旣致訛謬。熟習漢音。」と、 習いたる字音、即ち当時は截然たる区別も無い故の名無しの「呉音」でしょう、此れを用いるのを禁じ斥け、持統朝以来漸う熟した「漢音」を明記した上で此れに習熟し、 「明經之徒」即ち、儒教の試験を経て官途に就く者に強いる勅が発せられ、 又、翌延暦十二年の制に、「自今以後。年分度者。非習漢音。」と漢音を学ばざる者の得度を禁じているのは、 此の時点での呉音と仏教の結び付きの深さを表しているかの様です。 しかし延暦の勅も制も、足元の官僚こそ幾分増しではあったでしょうが、当時の学問の最先端たる仏教に馴染む「呉音」優勢の状況は覆せなかったのでした。

其の由来こそ明らかにはしていませんが、呉智英氏は著書『言葉の常備薬に「仏教語は原則として呉音」としているのが一般理解として宜しいでしょう。

寺院や僧侶の名前、経典の語句、仏具の名称、こういったものは、音で読む。 もともと、インドに始まった仏教が、支那で漢訳され、朝鮮を経て日本に入ってきた。だから、仏教語は漢語であり音で読む。 漢字音には大きく分けて漢音と呉音の二つがあるが、先に書いたように、仏教語は原則として呉音では読む。 いずれにしても、訓読みはしないし、重箱読みや湯桶読みもしない。 浅草の観音様は「浅草寺」と書いた時は、「あさくさじ」ではなく「せんそうじ」である。 「親鸞」は「おやらん」ではないし、「一休」は「ひとやすみ」ではない。 とはいうものの、私にも事情がわからない例外もある。京都の蟹満寺だ。 これは「かいまんじ」ではなく、「かにまんじ」である。 …(略)… 「蟹」を訓読みにする理由は不明だ。

ならば坂上田村麻呂が創建に深く関わったと言う「清水寺」[※7] は如何なのか、「きよみずでら」と訓に読むのではないかと思われますが、 江戸時代の『扶桑皇統記図会』の「田村丸建立清水寺条」には「音羽山おとハざん清水寺せいすいじ」と音読みで振られるものの扨、 「水」の呉音も漢音も「スイ」ですが、「清」は漢音が「セイ」で呉音は「ショウ(シャウ)」である様で「蟹満寺」と同じくして、 斯様に現代に於いても年号に於いて見られると同じく「漢音」と「呉音」は交錯して在る様に、 抑も両「字音」を截然たりて使い分けるのは難儀なのでしたが、 大凡仏教に「呉音」が用いられる傾向は現在迄連綿たりているとして良い様です。

「漢音」交錯以前の「呉音」は本邦に体系的な学問のなかった時代に導入され、従って優れた頭脳を持つ人々は渇きを潤す様に飛び付いたのではないでしょうか。 其の始原から連綿と「呉音」は学問に優勢たりて、斯く一般理解が招来されたのでしょう。 其れは公式には仏教公伝とされ欽明朝とされていますが、恐らくは漢字の導入に並行してあったでしょう。 宣長の主張するように漢字の導入には「字音」は必須で、彼等挙って「仏典」を研究するアーリーアダプター逹は「字音」の定着にも与って力のあった筈です。

「呉音」は其処から抜粋独立した「漢音」有ってこその「呉音」であって、 「漢音」が本朝に求められて後、遡って「加上説」的に形を成した如く認識されたものだと思われます。 挙って集ったアーリーアダプター達が「字音」定着に与って力のあったでしょうし、 其れは研究には必須の前提条件でした。 少数の博士が選定したのではなく徐々に彼等が仏典の研究を繰り返す内に広範な「字音」たる「呉音」は徐々に形をなし、「漢音」抜粋の基盤たり得たのでしょう。 是等アーリーアダプターの系譜を引く者達が、南都六宗の天才達だったのだと思われ、 此の知識人階層を上手く取り込めなかったことも「呉音」の優勢を覆せなかった原因の一つかと考えられます。 彼等に益々伝統的な「呉音」は益々学問の「字音」として定着して行きました。

日本語には、漢語の数え方と和語(大和言葉)の数え方がある。漢語も、漢籍を読む場合と仏典を読む場合では少しちがう。 また、慣習的な読み方もある。「一」を「いつ」と読むのが漢音で、漢籍を読む場合。「いち」と読むのが呉音で、仏典を読む場合。「ひと(つ)」と読むのが和語。といったいった具合だ。 漢音の例は、「統一」「いつにかかって」。 呉音の例は、「一人前」「女の一念」。和語の例は、「一夜ひとよ」「一仕事」。 …(略)… 「四本」は、「よんほん」でもいいが、「しほん」の方がむしろ正しい。 三、四本。最近ではこれを「さん、よんほん」と読むことが多いけれど、正しくは「さん、しほん」である。四、五本。これを「よん、ごほん」とは読まない。「し、ごほん」である。それと同じだ。 四、五百円。これを「よん、ごひゃくえん」とは読まないだろう。「し、ごひゃくえん」である。

「四」の「し」が使われ難いのは全く聞き取り難さに因る[※8] でしょうが、面白いのが漢数字の読み方にて、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウ(ジッ)」と言うのは「呉音」で、 聞けば何ともないと思われますが、此れが「漢音」読みとなると「イツ、ジ、サン、シ、ゴ、リク、シツ、ハツ、キュウ、シュウ」と、 此れが戦前派なれば学校に予科練の将校がやって来て生徒に訓戒を垂れる際には常に聞いた言葉に 「いつに諸君の…」で始まる文句が耳に焼き付いて多少違和感は和らぐかも知れませんが、 斯くあらぬ吾人には何故だか急に耳慣れぬ感じが否めないでしょう、 現代一般的には上の呉智英氏の引用から見るに呉音読みが採用されているからである様です。 此れを『大辞林第三版』に求めれば副詞「いつに」であり、 「漢文訓読から出た語」とされていれば、皇軍に於ける正当性からか、「仏典」より「漢籍」が近かったからかはいざ知らず、軍隊に於いては「漢音」読みが採用されたとは勘繰り過ぎですが、 単に副詞としての機能に熟している「漢音」読みの漢数字も有るには有るものの、 仏教では勿論当たり前の「呉音」読みの漢数字が、吾人に耳馴染んで感じられるのは現代の算数の授業に此れが採用されているからかも知れず、 学問に「呉音」の関係の深さが今以て保たれている一例と言えるのかも知れません。

呉智英氏が著書『ロゴスの名はロゴス』の中で「立ち上げる」と言う、 近年コンピュータ用語として使われ出した不可思議な日本語に関連付けて、 「一度用語として確立された言葉をそのまま使い続けると言う科学の体系性の問題らしい」と言及するのは、興味深くあります。 使い分けは天皇の名前の「化」、年号の「化」は全て「か」と読む如く、宣長が「尚い」と言う如く、朝廷が押す正統が「漢音」でした。 また本邦学問の嚆矢と言える古代仏教と「呉音」は結び付きが深く、其れは現代にも少なからず影を落としている様でもあります。 実際学問に有用であれば特に読みを変更する必要もなく、引き続き使用されていた言葉を使用し続けるでしょうし、 此れに変更を強いるのは正しく政治的な圧力であるでしょうから、此れがなければ一旦固定した「字音」は其の儘使われ続けるのが読み取れます。

辞書を引く

些か「字音」に踏み込み過ぎた嫌いも有りますが、では「変化」の読みに戻れば、 一般には如何なる読み方をされているかが気になります。 此れが脳裏に有って常に気になりながら過ごす折しも一昨年2021年初秋、静岡県立大学名誉教授の 岩崎鐵志てつし 先生の『変化抄』の講座を受けた機会には先生が如何に発音するかを注意深く聞きました。 すると先生が講座中『変化抄』の題目を発声したのは只の一回「へんげしょう」との発音でしたので、 講座終了後に此れをお尋ねすると、先生さえも最初はなんと読むか悩まれたそうで、 「もう俗に“へんげ”と読みことにしました」との回答を受けては、 成る程、正答の無いからこそ講座の題目たりながら曖昧な其れの発声はたった一回であったのだろうと合点が行ったものです。 従って何方で読むかは未だ不明にて、「へんげ」と読んでも「へんか」と読んでも間違いではない、とされました。 斯界の権威たりても分からないことは潔く分からないとする姿勢には実に好感を抱かされたものです。

次の講座の機会は同年同月、有り難くも席に付いた処を直々に手招きを受け、 態々ご持参の『江戸語大辞典』の「へんげ」の項を開き、「“変化”では“へんか”は見付からず、此方しか載っていません」とし、 更には其処に“歌舞伎関連用語”としてあるのを指差して「歌舞伎の言葉だから(庶民に)一般的です。」とのお話で、 「歌舞伎の言葉は一般的に皆んなが使いますから、皆んな知っています。」とご教授下さいました。 先生は斯様な事情から不明なるものの、発声する必要の有る際には取り敢えずは「へんげ」としておこう、と言った事情が有ったのでした。 斯うして前回の講座で只一度「へんげしょう」と発音した理由を説明されるに一頻り、扨話されたのは 「今迄は気にしたことがありませんでしたし、周りに気にする人も居ませんでした。」 とされ、質問を受けては改めて 「今回、嘗ての同僚に聞いてみましたが、皆んなはっきりしたことは言えませんでした」とされました。 先生の嘗ての同僚であれば学問的に相当な手練に違いありませんが、僅かの期間に其の様な手間を取って下さったのには実に有難い話です。 「浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」に「へんかしょう/へんげしょう」と並列されるのは恐らく岩崎先生の影響なのでしょうし、 成る程、一般にはどう読んで良いか分からない所、恐らくは岩崎先生の影響力で「へんげ」と読む勢力が優勢なのだと思われた次第です。

比較的一般的で大衆に馴染みがあると考えて呉音の「へんげ」を已むを得ず選択した岩崎先生の姿勢は納得出来るものですが、 しかし此の心遣いを知らぬ儘、此れを聞いては権威のみを笠に着た連中が「へんげ」と呉音読みにするが正しいと、勢力を優勢たらしめんと主張し出すと始末に負えません。 一応此の如き連中はなかなかたちの悪いことに 学問的姿勢を装いますから、或る自称古文書の達人は「へんげしょう」と読むと主張する、其の理由として 高校時代購入の古語辞典には「へんか」の読みはなかったとの経験談を述べたのは何処かで耳にした話の矮小版にて、 高校生用古語辞典以上には何も参照しないなどとあっては一顧だに値しないのは自明の笑い話なのですが、 悪魔の証明 とは「ないことの証明」、「消極的事実の証明」で有って、此の証明が如何程難しいものかは此の手の連中は知りません。 虎の威を借る狐とて根拠の無いまま更には嵩に掛かって 「明治維新以降漢音が強制されたが其れ以前は呉音だったので江戸時代には“へんげ”と読んでいた」 との先生の心遣いを歪曲した妄言が吐き出されるに至っては狂人に等しくまともに相手をしていられませんので其れ以上話は聞きませんでしたが、 「黒い白鳥などいない」との如き主張に対しては、反駁は簡単至極、黒い白鳥を見せれば宜しいのでして、 では少し大きな辞典『角川古語大辞典』を見てみましょう。 「へ」の項目と繰って行けば其の内に「變化へんくわ」に行き当たります。 此れからまた暫く進むと「變化へんげ」が見付かります。 以上、Q.Quod E.Erat D.Demonstrandum (証明終了)にて“明治以前に「変化へんか」なる熟語は存在しない”という命題が真である主張は棄却される …では素晴らしい仕事の施されている辞典に余りに申し訳ないので、以下に其々引用しましょう。

へんくわ ヘンカ【變化】名・動サ変 漢語。変ること。また、変えること。「(変)化(ヘン)クワ」〔饅頭屋本節用〕 「変化へんくは一ならず盛衰常ならず」〔地蔵菩薩霊験記・一四〕 「毒悪の巨虬おほみづちありて、変化へんくわ通力彊きはまりなければ」〔弓張月残・六六〕 「切がごとくみがくごとく学びなば忽へんくわする性根玉」〔狂歌三栗集〕
へんげ 【變化】名・動サ変 「ケ」は呉音。合拗音化して「へんぐゑ」ともいう。 ❶神仏が仮に人の姿となって現れること。また、そのもの。「(光源氏ハ)仏・菩薩のへんけの身にこそ物し給ふめれ」〔源氏・蓬生〕 「上るりの扨も其後さゆのみて/やくしの反化がなをす痳病」〔大坂独吟集・素玄〕 ❷動物などが化けること。また、そのもの。「狐のへんけしたるか」〔源氏・手習〕 「今も東の沼・西の淵・南の池・北の沢ありて、其中にすむ変化へんげども、衣装に薫物して人の心を鼻さきへつまみあげ」〔艶道通鑑・一〕 ❸変化すること。姿を変えること。「思へば夢のあだし世に、見し面影の百の媚、千々の貌ばせも、刹那の生滅早く到り、幻夢影焔、乾闥婆城のへんげは、所執のはても無し」「宴曲集・無常」

変化へんか」なる熟語が明治以前には存在しなかった、との妄言は正気の沙汰ではなく、 併し物事を熟考する力の無い冷や水学問の老人の集まりでは一部の狂人の根拠の無い乍ら頑固に引かぬ主張が、 其のどぎつさ故か何時の間にか一般常識として蔓延してしまうので殊に注意が必要です。 凡そ前提が間違っていれば考察も主張も意見もへったくれも有ったものではありません。 恐らくは岩崎先生の影響下にあるとも知らぬ面々は初学者用の廉価な古語辞典などに無いと言う理由を以て、 辞典への其の安っすい支払い分で世の中への存在非存在など、どれ程の期待を掛けるのか厚かましいにも程のあれば「へんげ」を正しいとして頑として譲らないのは困ったものですが、 岩崎先生自身は便宜的に「へんげ」と詠んでいるものの、「実はどちらでも宜しい」 とされる明言こそに影響を受け、斯うした態度こそ真似して欲しけれども、厚かましさの面の皮に因って弾き返されてしまう様です。 実際辞書を引くなどは当然の上に至極簡単なれば、自身の周りでは此の手の狂人ばかりなのを奇妙にも思ったのですが、 此れも恐らくは岩崎先生の多大な影響力が負の方向に働いて、自らは調べる少しの手間さえ等閑にして権威に盲従する連中が溢れていただけだったものでしょうのは、 先生に直接に尋ねてみて初めて納得の行けば此の点でも先生の真摯な態度には感謝の念に堪えません。

古語辞典では斯様な結果でしたが、では国語辞典では如何なるかと『大言海』を見てみましょう。 『大言海』には「へんか」は項目立てられず、 「へん-ぐ/げ」が見られますので以下に引用します。

へん-げ(名)[變化](一)舊形ヲ轉換スルヲ變ト云ヒ、無ヨリ有ナルヲ化ト云フ。卽チ、佛、菩薩ノ通力ニヨリ、有情無情一切ノ變化スルコト。 法華經「神通變化、不可思議」源、十五、蓬生十二「佛、菩薩ノへんげノ身コソ、物シタマフメレ」 (二)動物ノ、形

『大言海』の言う「変化へんげ」は仏教用語、若しくは妖怪の類を説明しています。 では「呉音」が支配的である当の仏教の用語についても見て見ましょう。 中村はじめ著の 東京書籍刊『仏教語大辞典』に「変化」の項目を追えば 『江戸語大辞典』 と同様、軒並み「変化」は「へんげ」と振られる語彙許りにて其れ等事例を挙げれば 「變化へんげ」、 「變化生へんげしょう」、 「變化聖人へんげしょうにん」、 「變化心へんげしん」、 「變化身へんげしん」、 「變化土へんげど」、 「變化人へんげにん」、 「變化佛へんげぶつ」、 「變化法身へんげほっしん」、 「變化無記へんげむき」、 「變怪へんげ」、 となり、「へんか」との読みは見られず、仏教語だけを見ればこれはもう「へんげ」と読む他無いでしょう。 仏教に於いて「呉音」が支配的である証左にもなるかも知れません。 又注目すべきは「變化生へんげしょう」なる熟語の在るに仍って、 取り敢えずは以下に引用しておきましょう。

【變化生】へんげしょう 四生のうちの化生をいう。→化生けしょう<『法華経』五百弟子受記品(大)九巻二八中>

『大言海』、『仏教語大辞典』を以て 明治以前に「変化へんか」なる熟語の存在しなかったと主張する者が又候勘違いしない様に、 手間も単に引くだけと至極簡便なれば、更に別の辞典を確認してみましょう。 白川静『字通』を閲すれば此処にも明治以前の「変化へんか」を見て取れます。 「変」の項目を追えば字義の後に「変化へんか」があり 「【変化】へんか(くわ)かわりあらたまる。〔易、乾、彖伝〕大なるかな、 乾元、萬物りて始む。 〜乾道變化して、各〻性命を正し大和を保合するは、乃ち利貞なり。 庶物に首出して、萬物ことごとやすし。」 とありますが「変化へんげ」項目は立てられず、 「化」の中に「/化生 へんげ/」とあるのみです。

古語辞典では本邦の用例から中世以降に「へんか」が用いられていたのが明らかになりました。 参照した国語辞典や仏教辞典を見てみれば軒並み「へんげ」にて「へんか」は見えませんが、 しかし此れが白川静の『字通』をみれば逆に「へんか」が優勢になります。 仏典では「へんげ」、漢籍では「へんか」が用いられる様にも見えます。 其処で確認の為、 もう一つ最後にお馴染み諸橋轍次の『大漢和辭典』の縮寫版を見てれば「變化」の項目が立てられますので以下に引用しましょう。

【變化】22 ヘンクワ ㊀かはる。變りあらたまる。かへる。かへあらためる。〔易、乾〕乾道變化、各正性命。 〔疏〕變、謂後來改前、以漸移改、謂之變也、化、 謂一有一无、忽然而改、謂之為化。 〔荀子、儒效〕明枝主之義抑亦変化矣。 〔呂覽、下賢〕與物變化、而無終窮。 〔史記、樂書〕上以化、歳暮一何速。 ㊁[佛]ヘンゲ 一切の諸法をいふ。一切の諸法は實在ではなく、因緣に随つて現じた假生であるからいふ。〔大智度論〕一切法皆變化。 ㊂ばけもの。もののけ。妖怪。

諸橋は漢和辞典の性格上「變化」の項目に「へんか」と「へんげ」を並べ説明していますので、今回の目的には有用ですし、 加えて白川と全く同じく『易経』から引いてもおり、「へんか」は漢籍由来であるのが見えて来ます。 更に加えて重要なのは、呉音読みと漢音読みで意味が異なるのが両者の比較読みから明瞭に読み取れ、 此の目で見れば古語辞典に於いても同じく、辞典を幾つか閲してみて、 大凡呉音は仏教に通ずる処が確認出来、また意味も呉音読みと漢音読みで異なるのが明らかになりました。 上に「交錯読み」を本記事に仮置いた呉智英氏の『言葉につける薬』の 「明治・大正・昭和」に於ける「言語」の読みについて、 「言語ごんご道断」と呉音読みにするのと 「言語げんご学」と漢音(呉音交錯)読みにするのとでは意味の全く異なる旨、述べられているのと一般です。

先人の知恵

呉音読みと漢音読みで意味を変えるのはなかなかに賢い知恵にて、 呉智英氏は同書「二人のヘップバーン」項目に於いて「文選もんぜん読み」と言う 特殊な漢字の読み方を紹介し、又訓読みの不適切な同じき人名に於いては例えば 「曾子そうし」と「荘子そうし」に於いて後者を 「荘子そうじ」と濁音化して読む習慣の定着を言い 「先進的な異国の文化を確実に吸収するために、先人はさまざまな工夫を凝らしている」とします。 吾人が先祖は斯うして日本語の豊かな文化を育んで来ました。

例えば 「競売きょうばい」と 「競売けいばい」で、 意味を異なるべく考案、熟されたのも同様の理由と考えられます。 「競」の字は呉音に「ぎやう」、漢音に「けい」、慣用的に「きやう」と割り当てられ、 又「売」の字は呉音に「め」、漢音に「ばい」、唐音に「まい」と割り当てられ、 従って「競売きょうばい」は交錯読み、 「競売けいばい」は漢音読みとなります。 古く「り」で用いられていた言葉が 司法の場に旧来文化の色濃く伝われば江戸期にも用いられていたかも知れず、 当該用語が御一新後には公文書的に用いられる抔に当たり漢語読みの試みられては交錯読みに 「競売きやうばい」で熟されたのだと思われます。 従って明治31年(1898)に「競売法」が制定された際には「競売きょうばい法」と読まれたのでしょう、 昭和三十三年発行の『大漢和辞典巻八』には「競賣」の項目に添えて「競賣法」の立てられる下に「キヤウバイハフ」と読みが記されています。 此れが法律用語に適用されるに至っては「きやうばい」では一般的な取引と法律的な処理との間に乖離が発生した故に、 世間知に長けた人達がいつの間にやら単純に読みを変える、若しくは漢音読みに統一する気持ちの孰れかで以て「けいばい」で落ち着かせたのだと思われ、 『図解による法律用語辞典』には「民事執行法」の項目内に「強制競売きょうせいけいばい」 「増価競売ぞうかけいばい」等が立てられています。 しかし此の状況を無視してメディアの力を以て捻じ曲げんとする言説が近年見られるのは全く豊かな日本語文化の毀損にて、 代表的にはNHKの言い分[※9] が見られ、此れが人道的及び人格者の仮面を被った物言いを以て罷り通るのは百害有って一理無し、 なかなかに嘔吐感を催させられもし、例に仍って世に熟したものを鹿爪顔に捻じ曲げて得意気なのは言葉狩りに熱心な品性下劣な組織の面目躍如にて、 そんなに「競」の字を「一般の人」の「なじみ」と言う根拠のない まことに恣意的な理由で「きょう」と読ませたいなら「競馬」も「きょうば」と読みなさい、と言う理屈です。 熟した「競売けいばい」をメディアの一方的な圧力で以て捻じ曲げられる関連専門家諸氏も 謂れなく国土を侵される国民と同様に途方に暮れているでしょう。 先人の知恵は徒や疎かにされて良いものでは有りません。

「変化」について其の意味から言えば、詰まり英語にすれば 「へんか」は「Change」、「へんげ」は「Metamorphosis - God/Monster」と捉えれば其の意が伝わり易いでしょう。 或る時は偶然、元教職員にて高齢の男性が印字を極く自然に「動物変化へんげ譚」に発声するのを耳にしました。 実際、現代に於いても「変化へんげ」はほぼ「妖怪」系統の類として機能しています。 「変化」は元々「漢籍」に於いて用いられていた広い意味であったものが、 「仏典」で用いられるにつけ「仏」に限定的に使用され、漸々「変体」の意味に偏重しては遂には「妖怪」と化す迄に意味が変化したのだと考えるのが自然の経緯に感じられます。

『変化抄』に於ける「変化」の意味

呉音で読むのと漢音に読むのとでは意味は異なれば「変化」とて意味上から読みは選択されるべきであるのは当然です。 では竹村廣蔭はどのような意味合いで『変化抄』を書いているでしょうか。

先ず巻一の前に通し番号201番「変化抄端書」には 「飛鳥川𛂙𛃙𛀳𛂞瀬と𛂁るよう𛂋世の中𛂜𛀙𛂦事夏草𛂙𛁈けき𛁭き草𛂜うつり𛃝𛀦𛂙心の𛂄らひ𛂋て」 なる文言が見られます。 世の中は変わってしまうものにて猶其れは宜しき方角にはなく 「𛀕こりと計り𛂁りて𛀕𛀙𛁑𛂜𛀙る」のを 「なけ𛀙𛂞しく」思い、子孫に 「家の𛂄𛃱𛄋𛃚有りきたり𛂜よう𛂋𛀄らまほしく古きよ𛂜質素を𛀙𛀄𛂦し見せ𛃅ほしく」て 自身に早くから見聞きして書き置いたものを纏めては 「二巻と𛂄𛁈変化抄と名𛁭け」た、と書名の理由が語られています。 素直に取れば「変わる世の中」を書いた、となるでしょう。 此処で相応しいのは 「変化へんげ」でしょうか、 「変化へんか」でしょうか。 猶、此の端書には弘化三年浜松の つぶが書かれており、 家長として家政に、村長として村政に力を尽くして来た自負が有るにも拘らず、群衆に我が家を取り囲まれるについては相当なショックを受けた様で、 『変化抄』を記し置く契機ともなり、其れから嘉永五年迄六年掛かりで二巻にものしたのでしたが、 従ってpessimismペシミズムに支配されながらも 廣蔭生来の諧謔心溢れる気質も相俟って或る種独特な雰囲気を漂わせる一書となっています。

次に本文に「変化」の二文字を追ってみれば、 通し番号2番には廣蔭は正しく「都𛂎“変化”𛁄始りと存候」と言います。 享和年中、享和元年から数えれば弘化三年より45年前、廣蔭八、九歳の頃のことでした。 「諸色高相成」又「勝手我儘𛂈相成不實勝」になってしまった世の中の変化について、嘆きを含む調子に書いています。 又、123番には「稗植付」の遅くなるにつけ「是迠都𛂎何事𛃚“変化”致候𛃚𛁄被命𛁄處」とし「人𛁏るけ候と存候得𛂦𛃚矢張り寸るけ候」変化を、 万物流転するものとして甘んじて受け入れざるを得ない状況を逆説的に肯定し諦観を含みながら書いています。 又、173番には「僅我六十年余相立内𛂋右様大“変化”」と有り、 此処に右様と有るのは比較的長文の段を約めれば仏教者の堕落にて、此れが僅か己が一生の間の「変化」であると愕然たりて仕舞いには 「嗚呼親鸞上人鼻𛀙高ひ事た」と廣蔭一流の文体にて痛烈に揶揄する有様です。 又、212番に「僅𛁄年根相立候中𛂋𛂋“変化”」と有る「奢」とは 人々の昔と違った生活や心持ち様態を言っており、本書執筆の契機ともなった遠因の水野忠邦の「倹約令」抔を言うのでしょうか、 「千戸万人𛁄心中を斟酌」した折角の「御趣意」も「皆いたすら事」となるのを 「吁我獨歎而已」と歎いて見せています。 又、続く213番も仏教を蔑むに「仏法𛂦“変化”し堕落而無戒破戒と相成“変化” 𛁄員数多し𛁲𛂋いと𛃅あらす」と、 最早悪し様に言うにも枚挙に暇無く不能で有るとさえ主張します。 扨、良識ある諸氏は此処に列挙したる“変化”を果たして 「変化へんげ」と読むでしょうか、 「変化へんか」と読むでしょうか。

通し番号58番に記される、酒造りに特別だった踏み臼を文政六年に別に金折村から買い来った者が売り始めた舂き米に村中挙って傾き、 遂には皆が立臼で舂けなくなってしまった状況を「𛄀𛂞替る世の中」と呆れて見せる様に、 『変化抄』に於いては即ち、世の中の「変化」を憂いている書であると言えるでしょう。 如何なる世の中の「変化」かと言うに特定の語句の登場回数を見れば、 先ず「奢り」の登場回数が通し番号201番、端書に一つ、本文に4、15、64、74、107、109、118、145、164と九つ、 一種跋文とも見える『浜松市史史料編4』には抜けている212番から219番迄に於ける212番には三つに加え熟語「驕奢」に用いられて二つ、 都合十二回が数えられます。 次に花麗(華麗)、花美(華美)、美麗を見るに、 42(花麗)、64(美麗)、76(花麗)、81(花美)、93(美麗)、136(美麗)、150(花美)、212(花麗) と八回、 また流行(はやり)を見れば、「流行り病」の意の170の五つ、217の一つを除いても、 12、12、17、70、76、77、78、81、85、85、91、95、109、137、138、145、145、155、168、205、205、177 と二十二回、 此れ等が否定的な脈絡で評価されており、奢侈、華美、流行への傾倒無くもがなと歎いていると言えるでしょう。 加えてネガティブな語句「勝手」「横着」、風俗については「よろしきと申風俗𛂞𛃚無之」「風俗悪敷」などの散見され、 五十回の「段々」と十七回の「追々」、三回の「年々」を以て、 二十五回の「古来」、五回の「往古」、五回の「仕来」、五回の「有来」、三回の「昔」、「上古」から、 六回の「近来」へと変わって行く世の中を書いているのでした。 上に書いた様に端書のつぶ を以て倩考えるに世の中が奢侈、華美、流行へと移ろい行くのを厭い、 『浜松市史史料編4』が「あとがき」に位置付ける220番には端書に対応するように 「朝夕𛂋𛂋𛁈𛁴𛁫𛂜𛀙け忘す業をつとめよ」 「吹𛀕𛀸す空𛃚長閑𛂋千代𛂜𛀸𛁟𛄋𛁠れ家𛂜春風」 とある二首は例え世の中が変わり奢侈に移ろうとも我が子孫だけは変わってくれるな、と言う願いが仄見える様です。

以上『変化抄』では「変化」は明らかに妖怪ではなくチェンジの「変化へんか」を意味しています。 只一点、通し番号213番のみ「へんげ」と読んでも違和感無く思われますが、 仏教揶揄に一書が尽きていれば「変化へんげ」も有り得るものの、 此の一文を以て本書全てを「変化へんげ」と見るのは好い加減無理が有ると考えます。 猶、廣蔭は仏教嫌いが徹底しており其れは通し番号 173、206、207、177、213、214、215、216、217、218、219、 特に跋文にも見える213から219の一連の項目がなかなかに痛烈な書き振りであるに伺えますが、多分に諧謔心に富む廣蔭のサービス精神的余興にも見え、 又、仏教語の「変化へんげ」を好んで、子孫へ書き伝え残す書名に据えるかは甚だ疑問です。 すると意味上からは「漢音」を用いて『変化へんか抄』と読むのが自然となります。

扨、上に「変化抄」と立てた項目に於いて本文に於いて「変化」なる漢字二字を如何様に読んだかと読者諸氏に問うに、ご回答の其れこそが恐らくは現在の一般的な読みなのであって、 此処に至れば意味上からも「漢音」に「へんか」と答えられたのではないかと拝察致します。 何となれば「へんげ」と読者に読ませるには限定的な局面を用意せねばなりませんが、其れは構成上展開していないからです。 「へんげ」と振り仮名無しに読ませるには神仏の権現への「変化」、妖怪「変化」などと、脈絡、周辺への特別な配慮が必要となり、其れ程頻繁に文章に用いられはしません。 即ち「呉音」に読む「へんげ」は意味上からも些か特殊で一般に用いるには限定された状況にて、一般の文章に潜り込ませるのは随分難儀な話となります。

江戸期の文書に「変化」の振り仮名を見る

では実際の所「変化」なる語彙は現代ならぬ以前にはの様に用いられていたのか、 私物の其れも何故だか廉価にして全幅の信頼を寄せる辞書に載っていないのだから「変化へんか」の御一新以前にはなかった、 とのたまう最早度し難い薄ら頓痴気脳足りん共には構っていられませんので、 先ずは江戸時代の典籍の現実の幾例かを見てみたく思います。

第一事例は曲亭馬琴の書いた『南總里見八犬傳』にて「変化へんく𛄌」が見られます。 戦に敗れて落ち延びる里見義実主従には、相模路の第三日にして三浦なる矢取の入江にて、 舩を頼むに小僧にさえも、無いが道理とつちくれを投げつけられては、 家臣の一人杉倉木曽介氏元が怒り心頭刀の鞘に手を掛ければ、 此れを制して義実が、春秋五覇は晋の文公重耳の故事を家臣に語って聞かせる折もおり、 一天俄に掻き曇り忽然現れたるが白龍の主従の談ずるに義実こそ語りたれ、 「それ 𛁠𛂞 神物𛀙𛃉𛃚𬻿変化へんく𛄌 𛃚より 𛄌まりなし。」と、 版本の第壹輯巻一の十六オに記載されています。

此処から物語そっち除けにて龍の蘊蓄が語られており、此の一文は其の始まりの一文でもあって、 以降には降雨神たる龍の属性が語られますから、此の「変化」は天候の「変化」を言っており、 当該能力に於いて龍の其れは極まり無し、と述べているものですから「漢音」の意で宜しいものでしょう。 龍は神仏であるからには此処は「呉音」に読んでも違和感無くも感じられ、 却って「漢音」に読まれる方が違和感が感じられもしますが、作者は確りと「漢音」読みを指定しているのが幾分示唆的でもあります。

曲亭馬琴は明和4年(1767年)生まれで、嘉永元年(1848年)に没しており、 廣蔭より26歳年長にして、18年早い物故にて、55年間と半世紀以上もの長き間同時代の空気を吸っている勘定になります。 引いた山青堂の『南總里見八犬傳』は文化11年(1814年)の刊行にて廣蔭21歳、先駆けては文化四年に『椿説弓張月』で大当たりを取っており、 押しも押されぬ大家として廣蔭も『変化抄』に見られる如く常に大都市情報の収集に余念の無ければ知らない筈はなかったでしょう。 『南總里見八犬傳』を入手して読んでいた可能性すら高くあるのではないかと思われます。

『養蠶秘錄』上巻廾三丁ウの「変化(へんく𛄌」(国立国会図書館デジタルコレクション)
『養蠶秘錄』上巻廾三丁ウの「変化へんく𛄌」(国立国会図書館デジタルコレクション)

第二事例には『養蠶ようさん 秘錄ひろく[※10] が有ります。 『養蠶秘錄』は 上垣うえがき 守国もりくに の著作で享和3年(1803)に但馬国出石いずし藩の支援を受けて出版された[※11] 版本です。 蚕種を商う実業家たる上垣守国は養蚕研究家でもあり養蚕教師でもあれば、研究成果を後進に伝える養蚕研究書が『養蠶秘錄』でした。 此の全三巻の内の上巻を繰れば、廾三丁ウには 「𛀙ひこ𛂋油断ゆだん𛁏𛃆じき事」なる項目の立てられ、 たったの四、五十日くらい我慢して手抜かり無く蚕の世話を見よと『礼記』迄引いて訓戒が記される中に、 苗代に籾種を蒔く百姓がつい来った朋友との長話に時を過ごせば籾種の芽立ちが話の前後に大きく異なり、 たった半日の油断が午後蒔きの籾種の育ちを悪くした例を言い、 況してや蚕は命有って物喰う虫なれば 「少し𛂜𛂋𛃙変化へんく𛄌有べき事𬻿」 と論理展開しているのでした。

蚕は『礼記』にも登場する変態の元祖の様な物ですので、呉音読みにも違和感無く過ごせましょうが、 上垣守国が確りと「へんく𛄌」と振り仮名を振っているのは、 蚕の変態に限らず取り巻く環境の「変化へんか」に細心の注意を払って世話を見よ、と教え諭しているからでしょう。 此れが其の年の実入りの直結する所を苗代の籾種蒔きを引いて説いていると言う塩梅です。

上垣守国が兵庫県養父市は大屋町蔵垣の養蚕農家に三人兄弟の長男として生まれたのは宝暦3(1753)年ですから、寛政5(1793)年生まれの廣蔭より40歳年長で、 『養蠶秘錄』が刊行された享和3年には廣蔭10歳でした。 浜松は日本に普及した中でも筆頭の群馬や、上垣守国を産んだ兵庫の程には養蚕が盛んでは有りませんし、 『変化抄』にも目立った桑や蚕の記述は見えませんので、 庄屋であれば貴重な財源とも成り得る産業に関心のなかったとは言い難いものの、若しかしたら目にしたことはなかったかも知れません。 ともあれ上垣守国の没年は文化5年8月19日(1808)にて、此れは廣蔭15歳の時、廣蔭の生年と同じき期間、同時代の空気を吸っていた勘定ではあります。

『比翼連理花廼志満台』初編巻之上の十五丁オ(国立国会図書館デジタルコレクション)
『比翼連理花廼志満台』初編巻之上の十五丁オの「変化へんげ」(国立国会図書館デジタルコレクション)

次なる第三事例には『比翼連理ひよくれんり 花廼はなの志満台しまだい[※12] です。 四編に設えられた本書の初編の十五丁オモテに「変化へんげ」が有ります。 歳の頃は十五、六の「お春」なる娘のおっつぁんが大病患いに困窮して、 意を決して夜鷹に身を窶し夜四つ過ぎに往来で客を待つものの、 折から通り掛かるのは、六十余りの老法師に、倶利伽羅紋紋背負った強面と、凡そ腰の引け身を潜めるに、 暫くおいて通り掛かった者が二十歳そこそこの小提灯掲げた優男なれば袂を引くのが人情と言うものにて、 引かれた方は吃驚仰天、更には 芙蓉のまなじり丹花たんかの唇、 柳の腰の立ち姿のえも言われぬゾッとする程の美しさときては最早此の世の物とは思えず、いでた言葉の 「きつ𛂔 𛁠𛀪 𛀙𛁠ゞし𛂞変化へんげ𛀙。その手じや𛃥𛀙ぬ出𛂂𛄜せ」となるのも無理ゃぁありゃしません。 此処ではまさしく「変化」は狐や狸に類する もの 妖怪を意味しており「へんげ」と呉音に振られています。

ついては岩崎先生に、管見に検出した幾例かの内、此れのみ「へんげ」と振られているのですが、と尋ねれば、 合点が行ったと『比翼連理花廼志満台』はお芝居です、とのご発言にて、 お芝居、大衆演劇や歌舞伎に於いての「へんげ」を実事例から説明せるものと解釈下さいました。 成る程、「変化」に於いては「呉音」「漢音」の一般的差異にあらずして語彙特有の意味上と拠って立つ背景から 「漢音」読みの「変化へんく𛄌」は establishmentエスタブリッシュメントに於いてこそ其れなりに使用されもすれ、 「呉音」読みの「変化へんげ」は一層庶民層に馴染みが深かった時代背景が有ったのかも知れません。

『比翼連理花廼志満台』は著者は松亭しょうてい 金水きんすいにて江戸後期の人情物を得意とした戯作者です。 「変化へんげ」の記される初編は天保7年(1836年)に発刊された蓋然性が高く、 異動が有るにしても8、9年とされており、7年であれば廣蔭満で43歳、人生脂の乗り切った時期です。 此のお芝居が浜松近辺の芝居小屋にて掛けられたか否かは判然しませんので、廣蔭が目にして耳にしたかは不明ですが、 松亭金水は寛政9年(1797年)生まれと廣蔭より僅かに年少で、没年は文久2年(1863年)と廣蔭より此れも僅か3年早く鬼籍に入る次第にて全く同時代の人物です。 従って廣蔭も妖怪変化の意味に於いては「変化へんげ」と読んだのは疑い有りません。

斯くなる上は他に江戸時代に書写され、版刻された書物には他にも勿論「変化」に振り仮名の振られて用いられてもいるでしょうが、残念ながら此れ以上は我が手に余り、 敢えて付け加えるならば、「変化」に限らず「化」を「け」と呉音に読むものは 「幻化げんけ」 「勧化かんけ」 「化鳥けちょう」 「鬼化もののけ」 「遷化せんげ」 「化身けしん」 「化益けやく」 など、大凡が「Metamorphosis」即ち「変態」、若しくは仏教的な「権化ごんげ」の意と捉えられる傾向が窺え、 又、「か」と漢音に読むものでは 「王化おうか」 「感化かんか」 「神化しんか」 「千変万化せんべんばんか」 など検出され、矢張り「Change」に相通じ、若しくは「徳化とっか」的に、 漢音を正統とすべく朝廷の影響で以て人を変えさしめる意の含まれる様ではあります。 面白いのは「教化」で、江戸期の典籍に検出出来たのは「教化きょうけ」のみでしたが、 「教化きょうか」も熟語として有り一般には後者の方がお馴染みでしょう、 辞書には必ず記載されますので此処には皆迄言わず、此れも「変化」と同じく呉音読みと漢音読みで意味の異なる事例と言えるでしょう。

『玉くしげ』

最後に第四事例として引くのは『玉くしげ』です。 『玉くしげ』こそ誰あろう本居宣長の著作にて、 天明7年(1787年)12月に成るに別巻を添えて紀州公徳川治貞に献上[※13] し、翌々年の天明9年は寛政元年(1789年)に板行され、此処に閲した版本は半世紀後の天保13年(1842年)に城戸市右衛門が鵜飼家箱番号(桐箱2号)を以て復刻した版です。 上に引いた『漢字三音考』は阪府書林前川善兵衛が正確な刊行年は不明ながら恐らく明治期に再刊行した書ですが、 奥書に「天明五年乙巳仲春發行」と記される通り原本は天明5年(1785年)に上梓されていますので、 『玉くしげ』は『漢字三音考』の翌々年に成った勘定となります。 従って引くのは復刻本ではありますが城戸市右衛門は先ずは蛭子屋市右衛門の息にて、生年が安永7年(1778年)で没年が弘化2年(1845年)、 天明7年には満9歳で、天保13年には64歳の城戸きど 千楯ちたて[※14] にて寛政9年(1797年)に鈴屋門下となっていますから、 師の著作を尊びこそすれ振り仮名にさえ恣意的な改変はしていないものでしょう、 此の十二丁の表に一回、裏に二回、「変化」は登場し、都合三回孰れもが「へんく𛄌」と振られるのが検出出来ます。

『玉くしげ』は冒頭に「此書𛂞𛀄る御方」、即ち紀州徳川家第九代治貞に、 「道の大む𛂔𛂜世の心得を書𛁲奉れるな𛃲。」 と宣長自ら記す旨の書です。 冒頭から暫くは『古事記』及び「皇統」尊しを滾滾と説く此の如き書を御三家とは言え徳川家に献じるとは、 若しや徳川家康の耳に入れば我が生涯掛けた骨折りを台無しにしてくれん、とさぞかし目を剥き怒り心頭に発すだろうとハラハラさせられこそすれ、 読み進める内に戦国の乱世に触れ、織豊後の執政論に於いては 「東照神御祖命アヅマテルカムミオヤノミコト御勲功ゴクンコウ御盛徳ゴセイトク 𛂌よれる物𛂋して。 その御勲功ゴクンコウ御盛徳ゴセイトク と申𛁑𛂣。ま𛁩゙ 㐧一𛂍朝廷テウテイのい𛁠𛀬 オトロへさせ給へるを。」 「猶次㐧シダイ𛂍 再興サイコウし奉らせ給ひ。 いよ〳〵ま𛁏〳〵御崇敬ゴソウキヤウアツ𛀬して。 𛁭ぎ〳〵𛂌諸士シヨシ 萬民バンミン撫治ナダヲサ𛃔させ𛁟𛃂ヘル。」 と家康を持ち上げ、徳川が皇統を敬えば順に下も従い国が治ると言う論旨で、宣長の皇統大事の主張と徳川将軍家との折り合いを上手く付けて論旨展開し、 宣長の主張と徳川御三家献上書と言う現実を上手く折り合いを付けた作物と言えます。

又、本書の行間に垣間見えるのは儒者への ressentimentルサンチマン かに思われます。 在野の学者としての矜持も有るかも知れません、 随所に儒者を罵り、嘲り、貶める様が、唯に大義を以ての姿勢を超えて、 望まれる所を意見しては権力者に阿り媚び諂い生温い環境に身を置く御用学者の似非学者たる為体への怒気の赫然たりて行間に滲み出ているかの如くです。 従ってから文化を卑しむ姿勢が生々しくも瞭然と文字に起こされ、 勢い読む者をして国粋主義へと導いても不思議ではない空気を醸成する感も強く抱かれます。 翻って一方では上古を尊しとする姿勢へも繋がり、賀茂真淵の流れを汲む主張でもあるでしょう。

必然「皇國クワウコク」を尊び、 儒教の本国を以て「西戎カラ」 「唐戎タウジユウ」として卑しむのでしたが、此れは上の前々年上梓の『漢字三音考』の姿勢と何ら変わりません。 しかし此処に困った事実が有るのは、 斯かる卑しむべき「唐土タウド」が 「文華ブンクワ𛂛 ヒラ𛀴𛁠るこ𛁻」 が本朝より早いのは確かで、儒者の優位を主張する所ですが、此れを 「皆レイ𛂁𛃂さかしき。う𛂦べの ヒト𛄋𛁠𛃶ロン 𛂌して。クハシ く思𛂦ざる𛃚のな𛃲。」と一蹴し、反駁するに 「文華ブンクワハヤ𛀬 ヒラ𛀴𛁟𛃲𛁻て。唐土タウドスグ𛄀𛁠𛃲𛁻思ふ𛃚𛂯𛀙゙こ𛁻𛃲ハヤ𛀬文華ブンクワ 𛂛ヒラ𛀴𛁠るやうなる𛂞。 萬の事のハヤ𛀬 変化ヘンクワ𛁠𛂌て。 これ彼𛂙風俗フウゾクアシ𛀬軽薄ケイハク なる𛀙゙ 故な𛃲。 い𛀙𛂋𛁻いふ𛂌𛀙𛂜 唐戎タウジユウ𛂞。上古より 人心ヒトコヽロ𛂁まさかし𛀬して。 物事モノゴト𦾔フルきによること𛄚タツト𛂦゙ ず。 𛂯𛁠𛃚オノ𛀙思慮シリヨ工夫クフウを以て。 アラタ𛃔 カフるをよき事𛂍 せる國俗コクゾクなる故𛂍𛀕𛁩𛀙ら世𛂜模様モヤウ𛂣世〻ヨヽスミヤカ𛂍ウツ 𛃶𛂦𛃲しな𛃲。」 とします。 此処に「変化」が「ヘンクワ」と振られて用いられているのでした。

更には 「変化ヘンクワ𛂙 遅速チソク勝劣シヨウレツをい𛂦ゞ。 牛馬鶏犬ギウバケイケンなど𛂜𛁞ぐひ𛂞ウマ𛁲𛃲 成長セイチヤウ𛁏るこ𛁻 ハナハダ スミヤカ𛂁るを。 人𛂣これら𛂋クラぶれ𛂦゙。 成長セイチヤウする事ハナハダ オソし。 これらを以てナゾラへ見る𛂋マサ𛄀る物。 変化ヘンクワ𛁏ること オソき道理も有べし。」 と皇國を人様に、儒教本国を畜生に譬えるなど随分と痛烈な言い様では有るくだりの主要な語彙として 「変化ヘンクワ」は用いられています。 外国の本朝に比較して早い発展を良しとしないのであって、従って「進化」と言わずして「変化」を使用しており、 即ち宣長の此処で言う「変化ヘンクワ」は世の中の 「変化チェンジ」と捉えていると考えて宜しいでしょう。 此の「変化ヘンクワ」が皇国と外国とでは遅速が有るに於いて、 本朝の遅れたる事実を人と畜生の時系列に於ける成長に擬える論理展開にて、 早きを以て優れたりとは言えず、却って劣っているとさえ言う主張となっているのです。 宣長が「漢音」を本朝正統と考えていたのは間違いありませんが、 此処では態々正統たりとして歪な心持ちで漢音を選択したのではなく、全て弁えて上で、 意味的に極く自然に漢音に振ったのでは無いかと考えられます。

上の「変化ヘンクワ」二箇所の用例に挟まれるくだりには 「然る𛂋皇國ミクニ𛂣正直せイチヨク重厚チヨウコウ𛂁𛃸 風儀フウギ𛂌て。 何事𛃚たゞフルアト𛂌𛃲 マモ𛃲て。軽〻カロ〴〵 しく私智シチを以て アラタむる事𛂞せざ𛃲し故𛂋。 世中の 模様モヤウ𛂙よゝにう𛁩𛃲 カハること𛃚𛀕のづ𛀙スミヤカ𛂌𛂞𛀄らさ𛃲𛂄𛃲。 此重厚チヨウコウ風儀フウギ𛂣。 今𛃚𛃀ノコれること𛁛𛀙し。」があり 変化を厭うその主張が『変化抄』の主張かと疑うばかりです。 また皇國を人に例える例で押せば、 「又𛀙成長セイチヤウするこ𛁻スミヤカなる鳥獣テイジウ𛁻𛂞イノチ ミジカ𛀬。 人はオソくて。イノチ ナガきを以見れ𛂞゙。 世𛂜模様モヤウ𛂙。 うつ𛃲𛂦れるこ𛁻 ハヤトコロ𛂞。 其國のイノチミジカ𛀬。 う𛁩𛃶𛂦るこ𛁻オソき國𛂣ソンすること 永久エイキウ𛂁𛂶゙ し。その𛁈るし𛂞数千スセン 万歳マンザイ𛁳𛂌見ゆべきな𛃲。」 とあるは、つぶ に失意に沈む廣蔭が我が意を得たりと膝を打って筆を取った感さえ抱かされます。 竹村廣蔭は本居宣長の『玉くしげ』から着想inspirationを得て『変化抄』をものしたとしても毫も不自然な印象の無く、 であれば『変化抄』は『へんか抄』でしか有り得ません。

斯くも『変化抄』は『玉くしげ』の影響を以て生まれたるかの如き関係が濃く窺えますが、 では著者、本居宣長と竹村廣蔭の関係は如何なるものだったでしょうか。 本居宣長は享保15年(1730年)5月7日に正を享け、享和元年(1801年)9月29日に身罷っていますから、 廣蔭が生まれた寛政5(1793)年には満で63歳であり、廣蔭が8歳で亡くなっている勘定です。 従って賀茂真淵とは異なり同じ時代の空気こそ吸いはすれ、直接の関係は有りませんでした。 宣長は広く名を知られた廣蔭に取って偉大なる先学ですから知らない筈は有りませんし、 著書も読んでいたでしょうから全くの無関係とも言い切れませんが、 此れだけでは上の第一、第二、第三事例の著者連との同列から大きく外れる程でもない第四事例に過ぎません。 しかし其れ以上に両者の深い関係を取り持つ人物がいました。 竹村廣蔭の従兄弟で本家の 竹村尚規 です。

竹村尚規と花の白雲

竹村家は上に書いた通り入野村の庄屋の家系でしたが、 竹村廣蔭は其の比較的新しい分家「中竹」の二代目として生まれています。 「中竹」に対し本家は「本竹」と呼ばれます[H1] が、此の家系に生まれたのが竹村尚規でした。 父は竹村本家初代源四郎尚輝から数えて八代の俳人方壺としても知られる又右衛門尚政にて、 其の弟が中竹初代又蔵陳義のぶよし、 此の子が二代又蔵廣蔭ですから尚規とは従兄弟の関係にあります。 尚規の生年は天明元年(1781年)にて廣蔭が生まれた時は満で12歳にて共に丑年のちょうど一回りの勘定になりますから、 読者諸氏は自らの一回り違いの従兄弟等との関係を思い描けば、両者の間柄は想像に難く無いでしょうし、近所に住めば尚更です。 尚規は残念ながら文化8年(1811年)に満30歳で夭逝しており、此の時廣蔭は満18歳でした。 先ずは思春期を共に過ごしただろう尚規の影響を受けない筈が有りません。 尚、尚規については『変化抄』にも通し番号9に、宮々への寄付は9月1日と定めている文化5年の段が有り、 又95番の「鐵瓶」の段にも登場しており、 二十二回を数える「流行」が登場する内の一つにて折角ですので下に引いておきましょう。

鉄瓶𛂞享和年中本家尚規京都𛂋𛂎
𛂋候歟古手求帰り候此邊珎敷存余方𛂈
一向無之候文政九年新居本堂和尚𛁄
𛄋𛂈𛂎吉田より古手賈申候其頃𛃚𛃅𛁠余り
近邊𛂋見不申候天保五年𛁄頃より専家〻
𛂋有之候様𛂈相成候

京都で流行していた鉄瓶の、一地方入野での普及が、享和の竹村本家、文政の竹村分家、天保の一般家庭と時期を追って判然するのが興味深く有用な記事かに思いますが、 竹村尚規が享和に京都に赴いているのも分かります。 享和は元年から四年迄を以てなりますが、小山正著の 『石塚竜麿の研究』の改訂版を見るに「竹村尚規」が章立てられ、 「生前多病であつたので、療養かた〴〵、東西に旅行し、京の滞在も度を重ね、吉野あたりは享和元年、同二年と續けて行き、四國の金毘羅までも行き、箱根入湯にも日を重ねてゐる」と有り 京へも度々旅したと見え、又此の内享和元年の吉野の花見については本書の主眼である石塚龍麿が著書『花の白雲』をものしていますので、 読めば此の時京へも足を伸ばしているのが分かります。 『花の白雲』は原文が残念ながら入手なりませんでしたので平成元年三月二十日発行『静岡県史資料編14』に仍りますが、 龍麿が故郷細田村から出立して二十五日目の三月六日から二十八日目の三月九日に吉野見物と洒落込んだ、 全旅程を共にした石塚龍麿、竹村尚規及び高林方朗、夏目甕麿、高須元尚の五人と 二十四日目の三月五日から一行に加わった高野山の僧で年号が寛政から享和に改まったのを教えてくれた文長の六人は、 薬師寺、唐招提寺、法隆寺なども見物して三十一日目の三月十二日に山城国入りし、 翌三十二日目の三月十三日には京都は錦小路に宿を取って三十七日目は三月十八日迄、京見物に興じています。 離京の前日、三十六日目の三月十七日には十二日間の旅寝を共にした文長と別れたのでしたが、 同日、一行も明日は京都を発つとて「けふは家づとなどもとむとて、某の町くれの町とたどりありきて、春の日もはかなく暮にけり」と土産物色に一日を過ごしているのです。 廣蔭の言う「享和年中本家尚規京都𛂋𛂎流行𛂋候歟古手求帰」った 入野嚆矢となる「鉄瓶」は恐らくは此の日買い求めたものではないかと思われます。

此の『花の白雲』は唯に吉野の花見の紀行文では有りません。 吉野の花以上に竹村尚規含む一行五人が追い掛けたのが誰あろう 本居宣長 でした。 一行は吉野の花見に先立つ三日目の二月十二日には名古屋広小路にて同門下の植松有信に宣長は紀州和歌山へ赴いたのを聞くも、六日目の二月十六日には松坂に至りました。 この日本居大平を訪ねるも此方も宣長の供にて出掛けているのを知り、翌二月十七日には宣長宅を訪れ春庭と話をしています。 此の旅行時には満で石塚龍麿は37歳、既に著書の『古言清濁考』も宣長からの高い評価を受け、鈴屋門下に押しも押されもしない存在でしたが、 竹村尚規は未だ満で20歳にて今で言えば成人したばかり、春庭とも初対面であったでしょう。 一行は十一日目の二月廿一日には伊勢見物を終えて出立し、 十七日目の二月廿七日には大阪日本橋入りし鈴木町に若山棐を訪ねては宣長が前日に和歌山からの帰途にて正しく此処に立ち寄ったとの話で一日違いで擦れ違ったのを知り歯噛みしたのでした。 其れでも予定通り和歌山を訪れた一行は其後上記の通り吉野に赴いては京へと足を伸ばしたのでしたが、 三十九日目の三月廿日に再び伊勢は松坂を訪れた此の時の気持ちを龍麿は 「かのみわたりの橋にもなりぬ、二月の廿日ころ、此橋のほとりより大和路にものして、猶処々見めぐりて、こゝら日数のへにければ、 家路イヘヂも恋しかんなれど、師の君に見え奉らむの心にて、また此道には来たる也」と書き記しています。

此の夜、今回師の供して帰宅していた大平とも会え、尚規は矢張り初対面でもあったでしょう、 此の時、龍麿は大平から今月末に宣長が京へ出向く予定があるとして龍麿を伴に唆しているのですが、 龍麿は家族への手前も有って此の時こそ思い悩んだものの、結局誘惑に勝てず随行して『鈴屋大人都日記』を書き残してもいます。 此処に閲した東京大学文学部国語研究室所蔵石塚竜麿文庫の『花の白雲』には大平の跋文が記されていますので二人は可成り入魂の仲良しだったと思われます。 また大平は『石塚竜麿の研究』にも、 「文化二年秋八月末には本居大平、古學講説のため三河の吉田に滞在したが、更にこの入野村に来り尚規の家に二三日滯在して、 賀茂真淵にゆかりのある伊場村の賀茂神社を拜したり、佐鳴湖に雅遊をしてゐることもある。」 と此の三年後には入野竹村本家に逗留しており、さては尚規と此の日此の時の話などもしたのではないでしょうか。 大平宅を辞して後一行は宣長宅に赴くも夜更け過ぎとて置き手紙をして、翌日、四十日目の三月廿一日にして一行は師宣長との対面が三度目の正直で漸くなったのでした。 勿論、尚規は此の時が宣長と初対面であったでしょう。 恐らくは宣長は春庭や大平から尚規の為人ひととなりを聞いており、 同行の石塚龍麿や高林方朗などの推薦も有り、既に内山真竜の門下でもあれば、 入門誓詞等の見分こそ叶ってはいませんが、先ず『石塚竜麿の研究』の通り、 「享和元年二十二才で、宣長に入門」の仕儀と相成ったものと思われ、 であれば宣長の死は正しく此の年、享和元年(1801年)9月ですからギリギリ半年前に間に合ったのでした。

旅から鉄瓶を提げて帰り来った二十歳になったばかりの親戚のお兄ちゃんの土産話を8歳の廣蔭は面白く聞いたでしょう。 真竜や龍麿から常々高名を聞いていた宣長と対面、入門が叶ったとなれば其の嬉しさも廣蔭に直接伝わったでしょう。 若しかしたら此の時初めて本居宣長の名を知ったかも知れません。 又、大平には竹村本家に訪れた際に直接会ってもいたでしょう、此の時廣蔭は満で11歳、 佐鳴湖に伴いては湖岸の臨江寺に流石に大きくなり過ぎていますので膝の上はなかったでしょうが、 対岸の三つ山を眺め一首捻り出そうと呻吟する大平の背を見ていたかも知れません。 斯う見てくれば国学者としての廣蔭に宣長の強い影響の無い筈がなく、庄屋を勤めては御政道の訓戒と評判の『玉くしげ』も間違いなく読んでいたものと推察されます。

猶『花の白雲』龍麿一行は師宣長が上の『漢字三音考』字音の始原に登場せしめた「菟道稚郎子」にも旅の途次、興聖寺を訪れた際「寺より八丁ばかりおく」と最寄りの御陵について耳にしてもいます。 又、喜撰きせん法師の住居跡も併せて耳に入れ、 『寂蓮法師集』や『無名抄』に見ていたに仍って「菟道稚郎子」よりも興味が深かった様ですが、 細田村を出立してより旅も三十二日目、疲れも積もり重なり足が気持ち的に付いて行かなかった様で僅か数百メートル道を外れるだけの何方の訪問も諦念しています。

結言

以上を判断材料とするに結論として『変化抄』は「漢音」に『へんか抄』と読む蓋然性が頗る高いものと結論付けます。

然り乍ら実情は「へんげ」抄と読む「呉音」派一派が西遠、浜松地方に会う人毎に大勢を占めるのには常々違和感を覚えており、此れは如何なる事態やと訝しがるに、 岩崎先生の影響が先ずは有るでしょうが、先生に直接お尋ねすれば、何方でも宜しいとのお答えで、実は此の方面の研究が進んでいない状況も仄見えました。 研究が進んでおらず、先導者の断定し難いとする明確な姿勢も有るに関わらず、「呉音」読みを優勢たらしむ理由は奈辺に有るか、 岩崎先生の大衆芝居の影響にて一般的には呉音読みが優勢となる説明が一つ有るでしょう。 又、上記に項目立てた「辞書を引く」に於いて『仏教語大辞典』に、 「變化生へんげしょう」なる熟語の存在が確認され、 仏教者限定と言えど此の熟語が有るによって少しく巷に語感の違和感も薄れ、 加えては「へんげ」と「化粧」を合わせた語感も「呉音」読みに引っ張られる要因になりそうです。 「變化生へんげしょう」とは「化生けしょう」にて 卵生、胎生、湿生、化生、から成る「四生ししょう」の内の一つにて、 『精選版日本国語大辞典』に仍れば「母胎や卵殻によらないで、忽然として生まれること。」ですから、 本来、紅白粉べにおしろいの「化粧」とは何の関係も有りませんが、 「変化粧へんげしょう」とは如何にも大衆芝居に在りそうな題目では有ります。

又もう一つ、最も大きな理由としては、上記「『変化抄』に於ける「変化」の意味」項目に記した通り、現在一般的には特殊な文脈が無い限り、大凡「変化」は「Change」の意を以て漢音読みされますが、 此処に敢えて一般的で無い読みを選択する心底にpedanticペタンチックな嫌らしさが垣間見えるのです。 周りの空気に合えば特に調べもしないで強く主張する呉音読み一派には、若い頃を無学な儘過ごした人物の老境に入ってからの承認欲求の発露が見て取れ、 徒党を組めば一層効果的であれば周辺に限定的常識として敷衍させるに至る様子が伺えます。 「へんか」抄などと此の如き連中の前に発声しようものなら此の無論拠の常識を駆って高圧的に、 或いは嘲笑的に「へんげ」抄と決めつけられては随分と不愉快な思いの重ねるのを強いられますので諸賢には御用心を。 此の如き態度は語彙の貧困な層が排他的に隠語を用いるのと一般の心持ちにて、 衒学的な浅ましさ故に殊にたちが悪いものでしょう。

処で山上憶良の代表作として『万葉集』に於ける「貧窮問答歌」は良く知られる所です。 現在では一般に此れは「貧窮びんぐ 問答歌もうどうか」と読まれます。 しかし、斯う読まれるに至ったのは如何も昭和も終戦直ぐ程かららしく、 其れ以前は「貧窮ひんきゅう 問答歌もうどうか」と読まれていました。 此処に「貧窮びんぐ」は「呉音」読みであり、 「貧窮ひんきゅう」は「漢音」読みです。 昭和一桁の向きには「漢音」読みに覚えも有り、馴染みも有るでしょうが、一体何故読みが変えられたのか、 委細は孰れ講究したくはあるものの今は判じ難くありますので推測にしか過ぎませんが、如何も戦後の反体制を尊しとする考え方の印象を強く受けるもので、 「戦後レジーム」とは昭和22年(1947年)設立の「日教組」から「大学紛争」、「安保闘争」、「赤軍派」に至る流れや、 ラジオ、新聞、テレビなど「マスメディア」の出来の状況を表すに実に都合の宜しい言葉故に、 現今「脱却」を伴って政治的に用いられる意に取られ兼ねない誤解を招くのを承知で敢えて、 パラダイムシフト後の社会構造の意として広義の意味で用いれば、此の「戦後レジーム」の色が濃く窺える様です。 単純に言えば、国家一押しの正統たる「漢音」は受け入れ難いものと捉えられれば、斯くなる上は「呉音」に傾くでしょう。 此れは今其の存在が問われている「日本学術会議」にも当て嵌まる所で、設立時期も昭和24年(1949年)と上の理屈に合致するものです。 如何も浅ましき衒学者連中にも此の所謂知識人の醸成する空気が知らず知らずの内に影響を与えている様に思えてなりません。 若し資本家階級の意を強く含むに対する反bourgeoisieブルジョワジー的意識が、 庄屋階級の著者竹村廣蔭の意に反して「変化へんげ」抄と読ませているとすれば、 皮肉を通り越して、人智を以ては抗い難い大きな因縁さえ感じられます。

附言

『変化抄』の「変化」は「へんか」と読むと位置付けましたが、では果たして「抄」は如何様に読むでしょう。 タイトルとしての「変化抄」を廣蔭は書内に四度用いており、其の内201番の端書に二度と220番の跋文の一度の都合三度は「抄」の字を用いていますが、 202番に於いては「変化鈔巻第二」と「鈔」の字を用いています。 2021年の秋には東京家政学院大学で日本語学を研究されている内田宗一教授には草鹿砥宣隆の『古言別音鈔』の「鈔」は「抄」とも書きどちらでも構わない、とのお話を聞きました。 江戸時代の振り仮名を調べてみると 『御前菓子秘伝抄』では「秘伝抄ひてんしやう」、 『女郎花物語』では「抄物せうもつ」、 『物類称呼』では「漢語抄かんごせう」、「和名鈔めうせう」 などが検出されます。 「抄」と「鈔」は異体字に無く、別字ではあるようですが、 読みとしては共に同じく呉音に「ショウ(セウ)」、漢音で「ソウ(サウ)」とされており、 一般には呉音読みに「しょう」と読み習わされているのは江戸時代も現代でも同様と見られます。 本邦に呉音が強く根付いている証左であるかも知れませんし、若しかしたら漢音の「ソウ(サウ)」を用いないのは、 「御伽草紙」や「草双紙」などの絵入りの通俗的な読み物の書名の、同じく末尾に見られる「草」との混同を避ける為の、此れも先人の知恵かも知れません。 一体、末尾に「抄」の字を用いる題目は枚挙に遑が無く、 例えば鎌倉中期の教訓説話集『十訓抄』などは現在、「じっきんしょう」とも「じっくんしょう」とも読まれ、 前者は呉音と唐宋音の交錯読み、後者は呉音の統一、若しくは呉音と漢音の交錯読みとなり、 上の「和名鈔」などの事例も併せ漢字の読みから考えても、題目を構成する末尾の「抄」「鈔」の一字は、其の前に位置する書名構成要素と切り離して考えて問題無い様です。 すると「変化抄」は「へんかしょう」となり、書名全体では漢音と呉音の「交錯読み」に相当しますが「変化」と「抄」は切り離して考えて良いでしょう。

少しく「抄」「鈔」について考えれば、当該字は書名に於いて、IT用語を用いれば「疎結合」を以て全体に貢献していると言えるでしょう。 其々が独立して意味を持った上で全体として書名の意味を成していると言う塩梅です。 「抄」の一字の意味としては、本来の「掬い取る」から展開して「抜書き」や「注釈」を指す様になったと考えられており、 矢張り「抄」と「鈔」は別体ではあるものの同様に扱われる様になった此の状況の出来は、 漢籍は手に負えぬ管見に確実なのは上の事例から遅くとも江戸時代となりますが、恐らくは其の初出はもっと早いものと思われます。 此れが書名に用いられるのは『和名類聚抄』に明らかな如く遠く平安時代には既に見られ、此の写本には『倭名鈔』と「鈔」字の用いられる事例も見られる様です。 意味については推測でしかありませんが、 「抄」の字は若しや神羅万象凡ゆる物から漢字本義に従う「抄録」したを以て『和名抄』とし、 すると此れが読む側に取っては「辞典」の意で取られる様な、「掬い取る」から「抜書き」に展開したのと一般の心持ちの変化もあったのではないでしょうか。 斯う想像を逞しくするのも賀茂真淵が著書『万葉集遠江歌考』の国歌大観4324番 「等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閉乃宇良等 安比弖之阿良婆 己等母加由波牟」 の解説の中で明らかに『和名類聚抄』である所に『和名集』と言う言葉を用いているからで、 まさか『万葉集』大事の余り用いる字を間違えたのでもないでしょうから、 「抄」を「集」と同義で捉えていたこととなり、一般にも此の字義を以て解する時世であったのだろうと推察するものです。 「辞典」を「語彙集」と考えれば此の推移も無理無く合点が行く様に思われます。 『変化抄』も「変化集」であっても良かったのかも知れません。

尚、尚規に関しましては本記事には『花の白雲』を参照しましたが、 竹村尚規自身の手になる『盛りの花の日記』も有り、此方も五人一行の吉野の花見紀行文となっており、 特に本居宣長と尚規の関係については更に詳細な経緯いきさつが知れるものと思われ、 延いては廣蔭の宣長に対する思いも知れるものと思われます。 生憎版本原文は閲するのが不能にて翻刻書も出版されるものを行き違いも有るなどして入手がならず此処での利用は成りませんでしたが、 委細知りたい向きの為に此処に記し置き、 機会と都合が折り合えば自身も熟読の上、本記事に追記したく考えています。

賀茂真淵記念館所蔵竹村尚規『盛りの花の日記』版木(2022年3月5日撮影)
賀茂真淵記念館所蔵竹村尚規『盛りの花の日記』版木(2022年3月5日撮影)

本記事に於いては『変化抄』は漢音読みに「へんかしょう」と読むと結論付けましたが、 些か牽強付会こじつけ紛いに理屈付ければ『変化抄』執筆の動機付けには水野忠邦の移封と つぶ への直面が有って、廣蔭が変化を忌んでいるのが見て取れれば、 其の意味では世の中の恐るべき「変化」を化け物と考え「へんげ」と読んでも良いのかも知れません。 勿論将来新たに 将来廣蔭自身の手になる『変化抄』は斯々かくかく 然々しかじかと読むなる旨の「文書」の発掘されれば今回の此の結論を改むるに吝かでは有りません。 扨、此処迄読み進められた賢明なる読者諸氏におかれましては、 此の「文書」、「漢音」読みなら「ぶんしょ」、呉音読みなら「もんじょ」と読む処、如何読まれたでしょうか。

『変化抄』関連記事(H)
  1. 『変化抄』に通し番号を振る(2022年8月27日)
  2. 安政地震に見られる一次史料としての『変化抄』(2022年9月27日)
  3. 『変化抄』は「へんげ」抄か「へんか」抄か(2023年3月5日)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 歴史学泰斗による古代史まとめ『日本国家の起源』書評(2017年7月21日)
  2. 一生涯ガキ大将『勝夢酔/安吾史譚』書評(2012年11月7日)
参考URL(※)
  1. 識別番号 0010-0010-0000-0000-0000-0000-0140 (浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ:2022年2月5日採録、2023年3月5日再確認)
  2. 日本の漢字1600年の歴史 (沖森卓也/ベレ出版著者コラム:2011年10月31日)
  3. 日本書紀30巻(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. 倭の五王の比定2(No.159)(藤井寺市:2020年05月06日)
  5. 真福寺本『古事記』(本居宣長記念館)
  6. 古事記:国宝真福寺本 上(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. 清水寺の歴史(音羽山清水寺)
  8. 数字の音読み・訓読みについて(同志社大学:吉海直人日本語日本文学科特任教授(2020年2月17日))
  9. 競売」の読みは、「きょうばい」?「けいばい」?(NHK放送文化研究所:1998年9月1日)
  10. 養蚕秘録 3巻 [1](国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. まちの文化財(117)上垣守国と養蚕秘録(養父市:2020年1月30日)
  12. 花廼志満台 4編 一(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. 『玉くしげ』(本居宣長記念館)
  14. 城戸千楯(キド・チタテ)(本居宣長記念館)
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