遺跡に於ける大溝命名について

伊場大溝(古代の小川の跡)
 約1500年前から1000年前まで、ここには小川が流れていました。この小川は、公園北西の団地付近から、公園南東の森田・神田町の方向に流れていました。ここでは、その一部を発掘当時のまま保存しています。
 大溝の中からは、土器や木製品のほか貝殻などの食べかす、まじないの道具、さらには、この付近に古代 遠江国とおとうみのくに敷智郡ふちぐん の役所があったことを示す木簡(墨で字を書いた木の札)が大量に発見されて全国的に注目されました。

伊場大溝案内板(2016年5月15日撮影)
伊場大溝案内板(2016年5月15日撮影)

以上は現在は東西に長く公園として整備されている浜松市 伊場遺跡 の中程に残される 伊場大溝 の案内板に書かれる文言です。 此れを読めば古代には此処に自然河川の流れと其の周辺の当時の人々の生活が在ったのが分かります。 其れは伊場遺跡発掘調査に依って明らかにされたのでした。

伊場遺跡の発掘の経緯はどうなっているかを 奈良文化財研究所 の提供する 全国遺跡総覧伊場遺跡発掘調査調査報告書 の一つ 伊場木簡 [※1] から抜き出し、以下に時系列順に列挙しましょう。

  • 第一次調査
    昭和24年(1949)5月から翌年(1950)7月の間に、四期にわたる発掘調査を実施。 此れを今では第一次調査と呼び慣わす。
  • 第二次調査
    昭和43年(1968) 1月23日から2月20日、6月1日から7月20日迄の2回に分け実施。 後に東部地区と命名する弥生時代から古墳時代にかけての集落跡の規模把握及び其の西方に泥炭質の遺物包合層の存在を推定。
  • 第三次調査
    昭和44年(1969)12月から翌年(1970)12月迄実施。木簡四点を発見、俄かに注目を浴びる。
  • 第四次調査
    昭和46年(1971)6月26日から西部地区を中心に実施。 東部地区の東西に二条ずつ弥生時代の溝を発見、中央に古墳時代の住居跡群の存在を追認。 西部地区では、大溝と呼んだ幅15mの溝跡を発掘、得られた大量の奈良時代前後の遺物中に、 持統朝まで遡る木簡を合む、23点の木簡を追加発見。

この伊場遺跡発掘調査の中心人物となり直接発掘に携わり多くの実績を残したのが 向坂鋼二 氏でした。 本記事執筆者は氏の直接の指導を受ける機会もあることから以降本記事に向坂鋼二先生と記します。 さて先日2017年5月13日に木簡について向坂鋼二先生に直接の指導を受けた折り 不図常日頃不思議に思っていた此の 大溝 なる命名について尋ねてみたのでした。 何となれば手前勝手の研究に於いて遺跡の資料を見聞きするに及び頻繁に大溝なる単語を目にしていたからです。 大溝とは考古学用語なるか否か、どのような成り立ちにて考古学会に使用されるに至ったか、という質問です。 此の質問に対して向坂鋼二先生は事も無げに斯う答えられました、 其れは 私が付けた名前です と。

大溝とは向坂鋼二先生が伊場遺跡発掘時に河川跡を目の前にして何の気なしに思い着いた儘に付けた名前とのこと、 聞いている此方は驚愕です。 先生にお尋ねすれば元々大溝なる特別な用語はなく自分が適当に名付けたと、 また遺跡に大溝が用語として散見されるようですが、との問いには、 そうなの? 、との回答で余り意に介してはおられないご様子で 其の特段気にも掛けない答える際のご様子はまた特に其の様に呼ぶように周辺に指導もしておられない様子でもありました。 其の様子を目の当たりにして此方も随分目にしている筈の大溝なる単語を、そうであったようなないような、と口篭もる始末です。 確たる自信もなく、しかし確かに何度か大溝を伊場遺跡ならぬ遺跡の報告書に見ている記憶があります。 其処で其の場では、では改めて調べて見ます、と返したのみでした。 従ってこそ先生に状況を報告のためも兼ねて大溝なる単語を調査検討の上、本記事をものするものです。

通常では大溝単独で意味を求めると地名となるでしょう。 滋賀県は中西部に位置する高島市に南東部の一部を占め 昭和に高島町に編入される以前、明治には大溝村、続き町制施行にて大溝町と称した地域地名です。 一般にも大溝と聞けば此の地域を知っていれば一番に此方を挙げるでしょう。 しかし此処で大溝の意味する処は考古学用語的な位置付けで極々普通に、当たり前に 遺跡に付随する水流跡 として用いられているものです。 伊場遺跡発掘以前に此の用例がなく以降頻出するとなれば自然に 現在遺跡に散見される大溝と命名される水流跡の使用の嚆矢が向坂鋼二先生ではないか、 との疑問が生じてきます。 プログラミングに於ける常套句である 名前重要 の概念は遺跡発掘にも活き、即ち遺跡発掘時に河川、運河、空堀跡などを端的に命名することで 未だ正体の掴み得ない状況の把握に与って力を発揮するに当たり、此処に向坂鋼二先生の 大溝 命名と言う現場発想が誂えた様に此の要請に嵌まり込んだのではないかと推測するものです。

以下に2017年現在Google検索を通して得られる関連すると思われる遺跡情報の当該部分を抜き書き列挙して見ます。 書式は先ず大溝を有する遺跡名を太字で、次に番号順に 1.発掘時期、2.所在地、3.大溝の性格、4.参考アドレス、としてあります。 順番は主にGoogle検索結果に従って時系列や名前順にはなく順不同となっています。

    1. 伊勢遺跡
    2. 昭和55(1980)年、個人住宅の建設に伴い調査
    3. 滋賀県守山市伊勢町、阿村あむら町、栗東市野尻のじりにかけて広がる弥生時代後期の大規模遺跡
    4. 人工的な溝、伊勢遺跡東部の限界となる大規模な区画施設
    5. http://ise-iseki.yayoiken.jp/mizo.htm
    1. 上田町うえだちょう遺跡 丹比大溝たじひおおみぞ
    2. 平成3年(1991)、上田町遺跡の一角で行った発掘調査
    3. 松原市阿保1丁目、上田1から7丁目所在
    4. 付近一帯の水田潅漑若しくは難波から飛鳥に通じる舟運を目的とした運河
    5. http://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/10,1328,49,450,html
    1. 公文遺跡
    2. 1988年3月豊橋市埋蔵文化財調査報告書第8集(公文遺跡1)刊行
    3. 豊橋市牟呂公文町
    4. 豪族居館の周囲を方形に巡ると考えられる溝、断面がV字状で、規模は一辺が50m以上に及び、幅約4m、深さ約2mを測る
    5. http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=627
    1. 反町そりまち遺跡
    2. 調査期間:平成19年10月1日~平成20年9月31日
    3. 東松山市高坂256番地
    4. 河川跡
    5. http://www.saimaibun.or.jp/h19/320.htm
    1. 久泉ひさいずみ遺跡
    2. 1988年(昭和63年)遺跡発見
    3. 富山県砺波市祖泉・久泉にまたがる複合遺跡
    4. 庄川の当時の本流から取水し荘園推定地に灌漑導水するもので幅6m以上、深さ1.6mで全長は2km以上もあるとされる
    5. http://www.toyamaguide.net/spot/717/
      https://ja.wikipedia.org/wiki/久泉遺跡
    1. 城之越じょうのこし遺跡
    2. 指定年月日:19931029
    3. 三重県伊賀市比土・古都
    4. 古墳時代に築造された三か所に湧水源をもつ大形の溝(大溝)
    5. http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138797
    1. 郡元西原こおりもとにしばる遺跡
    2. 宮崎県都城市郡元町
    3. 毎日新聞2016年9月10日 地方版
    4. 平安時代末の大溝(幅約3.5m・深さ1.5m)は、調査区内でほぼ90度に折れ曲がり、政所敷地の西南角部と推測され断面は逆台形で、溝壁面や底は平らに整備され非常に丁寧なつくり。
    5. https://mainichi.jp/articles/20160910/ddl/k45/040/265000c
      http://cms.city.miyakonojo.miyazaki.jp/tempimg/160909165334201609091720140f.pdf
    1. 下鈎しもまがり遺跡
    2. 京都新聞(2016年11月30日)
    3. 滋賀県栗東市下鈎
    4. 大溝は長さ約35m、幅約4m、深さ約1.3m。楕円状直径(長径?)約250mの規模と推定。溝を巡らせて大型建物を計画的に配置した伊勢遺跡と同じ形態
    5. http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20161130000044
    1. 上保本郷かみのほほんごう遺跡
    2. 平成27年度に続いて実施した上保本郷遺跡の発掘調査は平成28年度11月末で現地調査終了
    3. 岐阜県本巣市上保
    4. たくさんの大小の穴の他に、東西方向や南北方向に走る複数の溝が見つかり中にも特に規模の大きい2つの溝を、それぞれ「大溝1」「大溝2」とする。
    5. http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/27221/chosa_dayori/20170302-dayori.html
    1. 芹生谷せるたに遺跡
    2. 調査期間:平成25年6月から平成26年2月
    3. 南河内郡河南町芹生谷せりゅうたに
    4. 金山古墳の東側から北に向かって伸びる一条の大溝は砂で覆われ推古朝の頃の水利施設の一部と思われる。 
 後世の条里制で水田区画が変更されると真北に流れるようになり現在に至るまで水田の水路として使われ続けたよ。
    5. http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/maibun/serutani-h25.html
    1. 西川津遺跡
    2. 掲載日時:2011年11月14日
    3. 島根県松江市西川津町
    4. 弥生時代前期 の少なくとも30mの長さと見られる大溝。環濠集落の可能性の示唆。
    5. http://www.museum.or.jp/modules/topNews/index.php?page=article&storyid=1889
    1. 石神いしがみ遺跡
    2. 1981年(昭和56年)本格的発掘調査開始
      第15次調査:2002年7月3日開始、2003年1月20日終了
    3. 奈良県明日香村
    4. 東西大溝は東西21m以上、幅最大6m、深さ20~40cm。 南北大溝2は東西9m、南北9m以上、深さ50cm。 水は東西大溝を西から東へ流れ、さらに東西溝2に流入して北へ流れる。 東西大溝・南北大溝2には粘土や木屑の層が厚く堆積。
    5. http://www.gensetsu.com/03isigami1/doc1.htm
    1. 宮下遺跡
    2. 1974年(昭和49)12月から翌年の1月に行われた調査
    3. 安城市桜井町
    4. 遺跡の南方の中狭間遺跡の溝へとつながる流路であると推測される。 大溝の肩から斜面にかけて複数の杭の打ち込み。 弥生時代中期には存在し、古墳時代中期までに徐々に埋没。
    5. https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/shisetsu/kyoikushisetsu/maibun-sites-miyasita.html
    1. 西川津遺跡
    2. 2006年以降の道路改良に伴う調査
    3. 松江市西ハ陣町
    4. 弥生時代前期と後期の環濠の可能性がある大溝
    5. http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/tayori/kankoubutu/hakkutupanhu.data/3_nisikawatu.pdf
    1. 瓜破うりわり遺跡
    2. 平成24年10月20日発掘現場現地説明会
    3. 大阪市平野区瓜破西之町
    4. 集落を囲む環濠の可能性が高い幅3.5m、深さ2.0mの大溝
    5. http://www.occpa.or.jp/OCCPA/event_news/2012_event_news/2012_1020 uriwari.html
    1. 阿部舘あべだて遺跡
    2. 調査期間 平成23年5月19日~7月29日
    3. 秋田県にかほ市両前寺字阿部舘
    4. 遺跡の初現時期に属すると考えられる遺構は、最大幅5m以上、深さ1.6m以上、長さ50m以上の大規模な大溝跡。 平坦面の中央部を弧状に巡っており、その内側を区画したものと考えられ、9世紀半ば前後に埋没したものと推定される。
    5. www.pref.akita.jp/gakusyu/maibun_hp/pdf/h23_6abd-leaflet.pdf
    1. 四条しじょう遺跡大田中おおたなか地区
    2. 1987年(昭和62年)第1次発掘調査
    3. 奈良県橿原市四条町
    4. 当初、古墳の周濠であるとも考えられたが、溝内から出土する遺物から、集落に巡らされた溝である可能性が高いと考えられる。
    5. http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/spot/shijou_ootanaka.html
      https://ja.wikipedia.org/wiki/四条古墳群

以上、ざっと検索して見ただけでも枚挙に遑がありません。 無論、インターネットに於ける検索行為というバイアスが掛かっており比較的新規発見の水流であるのは考慮に入れねばなりません。 そうであるにしても伊場遺跡以降大溝が意識されだしたことに対する有意性が強く感じられる結果の様に思われます。 各々インターネットに共有される情報を読んで感じられるのは、 皆々、大溝を極く当たり前に何の疑いもなく遺跡の水流跡を見れば命名し使用していること、 併せて大溝と言う言葉に何の疑いも抱いていない様子が伺え、 其れは恰も考古学の教科書に其の様に書かれてあったから其の様に使うと謂わんばかりです。

伊場遺跡公園内に残された伊場大溝(2016年5月15日撮影)
伊場遺跡公園内に発掘時の状態で保存された伊場大溝(2016年5月15日撮影)

処で仮説に都合の良いデータばかりを取り上げては捏造、牽強付会の誹りを免れません。 今回上のデータをインターネットから取得するに当たり伊場遺跡発掘以前に大溝を遺跡周辺の疎水の意で用いている事例を唯一つ見つけ出しました。 大阪府羽曳野市の 古市古墳群ふるいちこふんぐん の合間を抜けて走る 古市大溝 です。 発見されたのは昭和39年(1964)、伊場遺跡第4次発掘調査に先立つこと7年です。 発見者は 秋山日出雄あきやまひでお 氏にて航空写真の観察時に見つけ出されたものとされています。 全長12kmと長大な大溝は時期、用途については不明ですが 運河、灌漑、などの機能を有したものと考えられているそうです。 ただし伊場遺跡第4次発掘調査に遅れること8年の1979年に 原秀禎 氏の文責になる 古代の「古市大溝」に関する地理学的研究[※3] が供されており此処に題目にも大溝が使用されていますが 発見時には大溝の呼称は用いられず 大溝渠 とされていた状況が伺える一文がありますので以下に引用します。

この溝渠跡に関する研究は,秋山日出雄が航空写真の観察から, 藤井寺市野中付近にみられる直線的な溜池群の配置に着目し, 「古市の大溝渠」と名づけて報告したことに始まる。

以上、管見、非力にて大溝の初出を遍く関連文書を辿って見出すのはならず なお碩学の卓見を待ちたいと思いますが 学術用語が如何様に誕生し敷衍するに至るかの一事例となるかも知れない状況の大凡の処は世間に共有できたものと思います。 登呂遺跡発掘に高校生で参加して蜆塚遺跡の発掘に携わり、そして伊場遺跡と静岡県の遺跡発掘に絶大な貢献をした 向坂鋼二先生が意図せず考古学界に新用語を発明したとしても一向に怪しぬに足りない様に思うものです。

参考URL(※)
  1. 伊場遺跡発掘調査調査報告書 伊場木簡(奈良文化財研究所)
  2. 古市大溝(羽曳野市公式サイト)
  3. 古代の「古市大溝」に関する地理学的研究(PDFファイル)
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