何故富山名物と言えば鱒寿司なのか

富山名物と言えば筆頭に上げられるのが 鱒寿司 であることは人気テレビ番組 秘密のケンミンSHOW に於いて富山県が取り上げられた際にも 富山市内の何軒もの鱒寿司専門店が紹介されたのにも明らかです。

同番組では2012年6月14日の放送で、以下列挙する処などが紹介されました。

かたむき通信2012年6月15日の記事 6月上旬の富山湾の幸ホタルイカに白エビ~秘密のケンミンSHOW発 ではタイトル通りの6月の放映の時期に併せた富山湾の旬の味を取り上げましたが、 また何故富山名物と言えば鱒寿司なのだろうか? と言うのも気になる処です。 いつ頃から、何故富山の名物となったのでしょうか?

Web上を見てみれば WEDGE Infinityに於けるフォトジャーナリストの森枝卓士さんの手になる2009年2月27日のコラム 神通川が生んだ名物 富山、ますのすし が有りました。 このコラムでは ますのすし本舗 源 の本社兼工場を見学した際の様子が記されています。

残念ながら本舗源ホームページには鱒寿司が如何にして富山名物となったのか 記載は見当たりませんでしたがどうやら工場には陳列があるらしいのです。 その内容、鱒寿司が富山名物となる経緯がコラム中に記されていました。

話しは鱒寿司以前から始まります。 寿しのルーツとしてはタイ、ラオスから南中国近辺、 元々は塩漬けにした魚をさらに炊いたご飯と合わせ、 密封して数カ月から数年漬け込むものでした。 その語源も乳酸発酵してご飯も酸っぱくなるから 酸し と言うこととされます。 その寿しの原型に近いのが琵琶湖のフナズシです。

これに麹を加える形態が ハヤナレ 詰まり早く馴らした金沢のカブラずしなどとされます。 麹を加えることで早く安定的に発酵するのですね。

ここから大陸系を素直に継ぐものと日本流のものに寿しは枝分かれします。 ご飯や具となるものを酢で〆るのは日本流、 これが関西の押し寿司であったり、江戸の握りへ連なるものです。もう一方が大陸系を継ぐ製法がカブラ寿司や鱒寿司となりました。

岐阜県に源を発し飛騨高地を北に流れ富山平野を南から北へ縦断し 富山湾に注ぐ神通川、古来この川には鮭や鱒が豊富でした。 鱒寿司はこの豊かな魚と流域に広がる水田稲作との出会いの食文化と言えるのです。 コラムには平安時代の 延喜式 に都への献上品として神通川の鮭のナレズシが登場するとされています。 かなり古くから鱒寿司の限界は富山県にあったのですね。 献上品となる程ですから余程の美味でもあったのでしょう。

時代は下って江戸時代享保年間、 富山藩参代藩主前田利興の家臣吉村新八が、将軍徳川吉宗に鮎寿司を献上、 このときの鮎寿司の製法が現在の鱒寿司と同じ早ずしであったそうで、 この時に吉宗はこれを絶賛しました。 この逸話が現在の鱒寿司の起源として語られているそうです。

そしてこれが全国一般に知られる契機となったのは 駅弁 であるとされます。 これを明治45年に最初に販売したのが本舗源の前進であるということです。 コラムでは土地の伝統的な食文化を駅弁とする発想は当時には他に見えず、 慧眼なる哉、と賞賛しています。

本舗源サイトには2012年5月2日に 富山駅弁 源のますのすし 販売から100周年 (2019年5月7日現在記事削除確認しましたので株式会社源の沿革を掲載する ますのすし本舗・源の歴史 に新たにリンクを貼り置きます。)を配信、100周年を祝っています。 ますのすし と呼ぶのは本舗源が始まりでもあるそうです。

そして鱒寿司はテレビで紹介されたように富山名物として隆盛を極めるようになりました。 番組では富山市内に20店舗ほどとしていましたが30店舗を数えるとする意見もあります。 基本的には鱒寿司と言えば鱒と酢飯を笹で包んで拵えますが店々ではそれぞれ拘りあるようです。 それは以下、列挙する処であったりする訳です。

  • 酢飯の固さ
  • お酢の量
  • 鱒の〆具合
  • 鱒の厚さ
  • 酢飯は鱒で挟む

このように店毎に工夫を重ね、それぞれの特色を出して結果、 富山市民は各自贔屓の店を持つような今の状況となったのでした。

勿論鱒寿司の美味しいお店はテレビ番組で紹介されるものだけではないでしょう。 ブログゆうたらグルメですちゃ☆ブログさんでは 富山・ますのすし をカテゴライズして2012年6月17日現在、 60もの紹介をものしてくれています。

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