前後編物として捉え読む『墨攻』書評

戦国時代末期、現代の中国が 韓・趙・魏・楚・燕・斉・秦 の戦国七雄に割拠し、しんが他国を併呑しようとしていた頃のお話です。

最初の舞台は えん梁城りょうじょう、 一人この城に現れた主人公 革離かくり は見事隣国 ちょう の大群から守って見せたのでした。 これが全11巻の内、1巻から4巻のお話し、 実はこの漫画は酒見賢一さんの歴史小説 『墨攻ぼくこう』 の漫画への焼き直しなのですが、 元の小説では梁城が落ちた時点で物語が終わっています。 しかし漫画版は尚、戦国の動乱の中、 優れた軍略家革離を中心に新たな展開を見せるのでした。

墨攻と言うのも奇異な言葉ですが、これが 墨守ぼくしゅ から転じた酒見賢一さんの造語であると言えばなる程と思われます。 頑固に守り通す意の 墨守の語源は中国春秋時代の思想家の墨子にあるのはご存知でしょう。 主人公革離はこの墨子の思想を墨守する者であるのでした。

墨子(墨翟ぼくてき)の時代よりその統領を表す 巨子きょし も三代目の 田襄子でんじょうし の頃に革離は生きています。 そしてそれは秦の始皇帝が天下を統一せんとする頃でもありました。 墨家は秦と結ばんとしたのでした。 墨子の教えを墨守せんとするからこそ革離は秦と結ぶ墨家と袂を分かたねばならなかったのです。 斯くして革離は梁城に一人で現れたのでした。

梁城を守り切ったとなれば必然的に革離の敵は 墨家及び大国秦とならざるを得ないでしょう。 革離は梁城に在った時より更に強大な敵と相対することになるのでした。

実は梁城攻城戦終了を以てこの漫画は前編、後編に分けられるべきものかも知れません。 そして残念ながら5巻から以降11巻迄の後編は、無論読者をして読ましめるだけの物語の力は持つものの、 しかしこれを評するには無念な終了を迎えたとせざるを得ないと考えるのです。

以てして呼ぶ後編は前編を下敷きに物語を拡大せんと図ったものと言えます。 一つの作品の中で正しく換骨奪胎が試みられた訳です。 しかしそれはビックコミックと言う 月2回の定期刊行誌連載と言う枠の中では難しいものだったのかも知れません。

前編に梁城を守る革離は後編では邯鄲かんたんを守ることになります。 此処に梁城を攻めていたのは邯鄲を都とする趙である処に作者の発想の面白さがあります。 然るに昨日の敵は今日の友となる時点でドラマも必然的に産まれるのでした。 そして攻城側であった敵は趙から秦へと役が入れ替わるのでした。 墨家の出ながら墨家と戦うというこの物語の肝ともいうべき骨格から 前後編通して墨家が敵であるのは一貫して変わりません。

しかし此処に重大なミスがあったように思うのです。 それは原作小説に小悪党でありあっさりと殺されるだけであった 薛併せつへいの扱いでした。 当初原作に忠実に再現したこのキャラクターを 後編では巨悪として設定したのには如何にも無理があり、 これが人気に災いしたのだと思われます。 敵方大将の魅力も漫画には欠かせない要素であるのでした。

邯鄲の攻城戦は唐突な終了を迎えます。 これは雑誌連載の事情故でしょう。 恐らくは梁城攻城戦迄は実に読者からの評判が高かったのだと思います。 作者は得られた人気に勢い力が入ったのでしょう。 筋立てにも工夫が見られ先を知りたくて胸躍らされるものでした。 しかしそのドラマツルギーは些か複雑に過ぎてしまったのかも知れません。 そして薛併の配役が蟻の一穴として問題を拡大してしまったように思われます。

この物語の一大骨子とも言える主人公革離と墨家集団との関わりは 後編に余り見られないものとなってしまいました。 墨家が秦にくみすことで必然的に両者を革離は敵となすのですが、 些か悪役が巨大となり過ぎて焦点が暈けてしまったようにも思います。 しかしそこを乗り越えてこそ主人公の魅力も惹き立ったことでしょう。

そして最も惜しまれるのは、 恐らく作者が力を入れもし後編の骨子ともなるべき筈の 墨家が何故歴史の闇に埋もれてしまったのか、という問いに答えるべき構成が 主人公との関係が薄くなった故に描かれずに終わってしまったことです。 儒教も老荘も其れに続いた韓非子など諸子百家の思想もかなりの部分後世に残ったのに対し、 墨家の思想のみが闇に葬られたのは実に興味深い処と感じられるだけに 此処は描き切って欲しかった部分であり、 これが無い故に後編が推薦の対象とはならない所以でもあります。

前半では適役は墨家は薛併であり趙軍は 巷淹中こうえんちゅう であり鮮明でした。 薛併のキャラクターは姑息に過ぎたものですが、 これが前半では後ろに控える墨家集団の恐ろしさを返って惹き立ててもいました。 後編この敵を更に強大なものとする時、 薛併を墨家集団の中心人物に格上げし、 趙軍の巷淹中は中国統一を成し遂げる始皇帝に置き換えらました。 作者の意気込みに反してこの大きな構想は人気長編漫画に有り勝ちなインフレ化にし、 物語をけさしめる要因になってしまったのだと考えられます。 前半が秀逸だっただけに実に残念です。

革離の友人子路や秦の始皇帝の影武者、 秦将 王翦おうせんにゃん の関係など様々張り巡らされた伏線は 急ぎ回収され、時には回収し切れずに些かかし物語が進められた感が否めません。

秦の始皇帝に敵対することで仲間となった蘭鋳と雲荊は 前者は落命し後者が物語の幕引きをすることになるのでしたが、 幕引きの発想も実に面白く惹き込まれるものとなっています。 この構想自体が作者のドラマツルギースキルの並々ならぬのを表しているもいるでしょう。 しかし諸々の事情に急かされ遂に限られた紙幅に表現し切れなかった感があります。

以上こうして漫画とその原作小説の関係を鑑みれば漫画の原作となった 酒見賢一さんの小説は俄然読むに値するものとなるでしょう。 小説や漫画の映画化などと同様、小説の漫画家に於いても 原作と漫画とを読み比べるのもまた一興となるものです。 そして漫画『墨攻』も 其の前編たる第1巻から第4巻は面白いものであるのは請合います。

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