確率と言う物は人類史上比較的新しい学問であり、 まだほんの端緒についたばかりで何やらも覚束ない状況にありながら、 なかなかに人間の根源的、本能的な部分を突き揺さぶって已まないものがあるようです。 コンピューティング社会の到来、インターネットの普及に伴って ビッグデータなるものが俄かに注目をあびビジネス輩が跋扈する処となっていますが、 大道芸的であったり、奇抜であったり、奇を衒ったり、 時には詐欺的な言説も登場しては消える曖昧模糊たる現況はまた 確率が大いに金銭的な事象にも結び付き易いことを示すでしょう。
数学的センスの無い経済学者は有り得ませんがまた 株式市場に携わるトレーダーなどにも確率論は必須とされてもいます。 以て統計は現在必須の学問とされているのですが、 此の如き黎明期には逆説めく主張も又正当性を以て登場するようです。 其れは決して統計は嘘をつく、などの浅薄な意見ではなくして、 統計の齎す根本的な問題であり、人の在り方と深く結び付いています。 何某か定立の惹起された時に此れを止揚発展させるべく生み出されたアンチテーゼの如き 此の現状に警鐘を鳴らす人物と其の処女作を本記事に書評として扱いたく、 特に本記事ではプロローグ及び第1章から第7章で構成される第1部 ソロンの戒め についてものしたく思います。
第2作目となる著書
著者はレバノン内戦で地位を失った一門の出で 20年ほどをロンドン、ニューヨークに数理系トレーダーとしてキャリアを積み、 其の後2004年からは研究者に転じ専門を 不確実性科学 としてマサチューセッツ大学に教鞭を取る傍ら文筆をも営んでいます。 デカルトよりモンテーニュに惹かれるとする著者はトレーダーとして従事しながら自らを 懐疑的経験主義者 と称す姿勢にて投資の世界に強い疑義を抱き、現場を踏まえ、長く考究を重ねた結果に 正しく其のエッセンスを本書にエッセイとして綴り大向こうを唸らせたのでした。
ベストセラー作家の仲間入りをした著者ですが、
其の性向を一言で表すとすれば失礼ながら
皮肉屋
として良いものではないかと思います。
此れが生来のものか、其の家系の辿った顛末のためか、
将又数理トレーダーとしてキャリアを積む中で醸成されたのかは定かではありません。
第3章70頁には著者に取っての2大思想家として
其れはトレーダーとしては一風変わった仕事の方針にも影響し第6章131頁には自ら其れを
歪みに賭ける
、また換言して稀な事象で儲けると表現しています。
従ってこそ
著者は数理系トレーダーとしてのIT関連などのツールにも精通してもおり、 其の扱いにも長けているのが覗え、 此れ等が紹介されるのも門外漢には珍しくもあり、 また説明は金融概念や人物批判に比較して容易な語彙を用いて平易に綴られているのは 面白く、同時に便利に受け取る向きも多い筈です。
以上の如き視点から分解するに 以下の3点を以て本書の内容をカテゴライズする見方も出来るものとして宜しいでしょう。 実際に書かれている頁数を加えて下にリスト化してみます。
- ブラックスワンに象徴的なユニークな視点で表される事象
- 著者の如き性向を持つ人物の溜飲を下げ得る批判的意見
- ツールの紹介
特に本記事で3件程付言したく、先ず上リスト第1点2番目の第3章78頁についての誤謬に陥り易いのは 経済学者はトレーダーだけにあらずして、著者の知る由もない 日本史に於ける自称歴史学者や研究家が往々にして陥る陥穽でもある点にて、 此の分野に無自覚者の大半を占める屡歴史本の書評で取り上げている 詐欺的徒輩の跋扈する状況は憂慮すべき事態にある処でもあります。 著者の言う 観察できる過去は一つだけだから後から見れば過去はいつだって明らかである は此の如き似非学者を糾弾するに、かたむき通信の 本能寺の変 ~信長の油断・光秀の殺意~ 書評記事[K1] や 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) 書評記事[K2] に取り上げた原著著者であり、かたむき通信で高く評価する 藤本正行 氏が述べる処とジャンルが全く異なるにも関わらず全く軌を一にしており、 其れは時系列で見る歴史学に於いて一層色濃くあるのが感じられます。 答えを知っていて試験を受けているような輩が大学教授としてあって 人様の採点をするなど烏滸がましくもあるでしょう。
次に取り上げたく思うのはリスト第1点3番目、の第3章82頁、 疑わしいときはシステマティックに新しいアイディアを否定するのが一番いいやり方である、 なる主張にて此の件に関しては以前はなまるチェック!なるブログに 所謂進歩主義者や事大主義的役人などが浅墓な言いっぷりで先人の知恵足る地名を軽んじるのを嘆いた記事[※1] をものしたものと同義であると考えます。 此れが市場にも敷衍され足る本書と見れば、 浅知恵に弄ばれるべきでない事象が世に殆どであると考えれば良いでしょう。
最後に付言したいのはリスト第3点の2番目、第4章95頁の
モンテカルロ・エンジン
及び3番目の第4章97頁
逆チューリング・テスト
にて此の2条については近年検索エンジンにスパム行為として認識される
さて、此れ等の一見奇矯にも見える言説の集群に 一本の筋を通す概念こそ昨今隆盛を誇る統計学へのアンチテーゼであり その核心足るのがブラックスワン、同じく著者言う処の 稀な事象 であり、第1部に於いての主題ともなっているのでした。
エッセイの体裁を意識してかの第1部前段に様々な事象と対する皮肉の記された後、第6章 歪みと非対称性 にはこの稀な事象の事例を挙げるなどして或る種の熱狂を以て説明されています。 中央値は語らない とする当該章初段には1,000回の賭けで999回は勝ち、1回負ける勝負に於いて 大抵は其の勝利頻度から賭けに参加する向きの多いのを怪しむのは、 勝利した時に得られるのは僅か1ドル、負ければ1万ドルの損失であるような払い戻し状況の非対称性も 専門家にさえ驚くべく程理解されておらず従って看過されるからであると言います。 殆どの分野では非対称性は重要ではなく頻度のみが注目され、 加えて信頼水準の無視出来ない非対称性が統計学者に稀な事象を等閑にさせるのです。
しかし分野に依っては全く以て単純化の行き過ぎであるのは明白で 当該分野では此れは白黒画然たる賭けに落とし込まれた罠であり、続く段 牛熊動物学 では自らが来週市場で小幅に上昇する確率が高いとしながら 大量に空売りする姿勢の正当性に諧謔を以て言及します。 此れこそ著者の数理系トレーダーとしての一貫した方針であり、上に記した 稀な事象で儲ける 実践である訳です。 稀な事象とは過去のデータを狭く解釈してしまった結果、リスクを見誤ることであり、 将来を予測する指標として過去の時系列データは役立たないものとする所以です。 土台が誰にも予測され得る未来は予測した人々の操作で平均に均されてしまうもの、 と紹介されるルーカス批判は 量子力学の観測問題 を彷彿とさせ面白くもあります。
第6章に促された稀なる事象の認識を以て、第7章 帰納の問題 では、白鳥はすべて白い、と言うのは真偽の判定の付かなければ而して命題足りえず、 ニュートン物理学は相対論に反証されてこそ科学足りえて星占いは其の範疇に属さず、 統計学は情報が増えれば知識も増えるとする面に目を瞑ることは出来ない、とするもので、 著者に多大な影響を与えたポパーの考えを借りて自らを極端で執拗なポパー主義者を自認する著者は 実証など不可能 であり、実証を重視することほど危ないものはない、とし、 永久に正しい真理の存在しない反証主義の社会に読者を誘うのです。 人間が効率的に記憶するに大いに用立つ因果関係はしかし其の圧縮で幾分か事象を捨象せざるを得ず 従ってランダムについて頼りないものとならざるを得ないのでした。
本書に頻繁に登場するキーワード
以下、書評の前編の最後に著者が本書のテーマを要約するに 勘違い、誤解を生ぜしめる状況の検討であるとする、 その対象たる対照的な事象を左右の列にまとめた8頁の表を引用しましょう。 自らを右列と確信している輩を或る日突然ブラックスワンが襲い 全く無き左列に在るのを思い知らせるのを皮肉る本書とも言えるでしょう。
一般 | |
---|---|
運 | 能力 |
偶然性 | 必然性 |
確率的 | 確定的 |
信念、憶測 | 知識、確信 |
理論 | 現実 |
逸話、まぐれ | 因果、法則 |
予測 | 予言 |
市場でのパフォーマンス | |
運がいいだけのバカ | 能力のある投資家 |
生存バイアス | 市場の打ち克つ |
金融 | |
ボラティリティ | リターン(ドリフト) |
確率変数 | 確定変数 |
物理学・工学 | |
ノイズ | シグナル |
文芸評論 | |
該当なし (文芸評論家というのは自分たちの頭では理解できないものには名前をつけないようだ) | 象徴 |
科学哲学 | |
主観的確率 | 客観的確率 |
帰納 | 演繹 |
総合命題 | 分析命題 |
一般哲学 | |
偶然 | 確実 |
偶然 | 必然 |
偶然 | あり得るすべての世界で真 |
追記(2013年7月10日)
本書の 書評後編 を配信しました。
かたむき通信参照記事(K)- 是非に及ばす~書評前編~本能寺の変、信長の油断・光秀の殺意(2013年2月23日)
- 信長の戦国軍事学~書評1~当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
- 浅知恵で地名を変えるべきではない理由~Yahoo!G-Banz(Acenumber Technical Issues:2012年2月19日)
- 前編~痛烈な皮肉と稀な事象(2013年6月3日)
- 後編~免れ得ぬ吾人の性 (2013年7月10日)