植物園北遺跡~多重遺跡の性格を持つ平安京の郊外

都市の始まりは郊外と共にあった、とするのは 吉川弘文館より上梓される 古橋信孝 氏著の 平安京の都市生活と郊外 が主張する処と、かたむき通信にも記事[K1] にしました。 この郊外の元祖たる集落の遺跡が発見されたと伝えられるのが北区上賀茂松本町に石標も備えられる 植物園北遺跡 に於いてでした。 この遺跡は 京都府立植物園 の北側に広く分布する大規模な集落跡を指しています。

京都府京都市北区上賀茂松本町(Googleストリートビュー)
京都府京都市北区上賀茂松本町(Googleストリートビュー)

京都新聞などの伝える処[※1] に依れば時代は奈良時代から平安時代の前期に掛けて開発されたものと言いますから正しく都市の黎明、成立期、 特に平安前期の遺構群は北に向かい揃うと言う規格性を持つことから当時の有力者、 賀茂氏と推察されています、が整備したと思われる広大な集落跡ではないかとされます。 規模は大きいものの時代的に掘っ立て形式の建築物となりはするものの 中にも最も大掛かりな建築には東西と南の3方向に ひさし が張り出し、其れ迄含めるとその大きさは東西幅は約16.2m、南北の奥行きは約7.8mと巨大なもので これこそが権力者の居住空間であろうとされているものです。

庇は現代的な軒の退化した感覚から言えば 窓際に申し訳程度に張り出した突き出しの屋根のような感覚を持たれ勝ちですが、 当時の大規模建築には 身舎もや に格式や形式はともあれ空間的には劣らぬ広さを有していることも多いものです。 今回の発見でも身舎の柱穴の感覚から東西約11m、南北約4.6mとされており、 東西には32%の、南北には41%もの拡張が為される計算になります。

この掘っ立て形式の巨大建築の構築されたのが9世紀後半と推定され、 9世紀と言えば坂上田村麻呂が征夷大将軍としての活躍から 最澄、空海の登場、清和源氏の祖たる清和天皇の即位、 菅原道真の台頭迄の100年間でその少し前延暦13年(794年)に 桓武天皇の平安京遷都が為されているのですから正しくその成立期、 賀茂氏かはいざ知らず当該地域の権力者が街道整備の為に統一的に集落整備を為した時期とあるのも肯けます。

より大きな地図で 全国遺跡マップ (植物園北遺跡)を表示

この建築物は郊外では最大規模と言えるもので 時代的にもそろそろ都市と郊外がその役割を分明たるものとした頃なのかも知れません。 しかしこの植物園北遺跡が平安遷都以前の弥生時代から連綿たる繋がりを持つ多重遺跡であるのもはっきりしていれば 京都府埋蔵文化財調査研究センター 側からも 遷都前後で平安京周辺の集落がどう変わったかを知る貴重な史料 であるとするコメントも見られ孰れ分析に依って日本に於ける 都市と郊外の関係の研究も進む筈です。

今回発掘では賀茂氏と推定されるもそれを示す墨書などの発見はありませんでした。 しかし同地からは高度な 緑釉りょくゆう 陶器なども発掘されており、研究者は勿論、興味を持たれる一般の向きも多いでしょう。 残念ながらこれを知る現地説明会は本日2013年2月11日の午後2時から既に実施済み[※2] となっています。

遠方の身にも此の詳細を知られるように是非説明会情報など 関係機関ホームページから配信して欲しいものですが、 此方も残念ながら同日夜半となっても当該頁[※3] に関連資料は見つけられません。 他の埋蔵材情報を見れば適切な配信は為されている様ですし、情報検索性も悪くないことから 情報配信の姿勢をかたむき通信的勝手格付けは以て最低ランクとする必要もないこととしBとしたいと思います。 若しかしたら例に依って本日現地説明会に直接赴いた向きの 自ら運営するブログへの配信に知られる方が早いかも知れません。

使用写真
  1. 京都府京都市北区上賀茂松本町(Googleストリートビュー)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 平安京の都市生活と郊外~書評~日本が先行した独自の都市概念(2012年10月30日)
参考URL(※)
  1. 平安の大規模建物跡 左京・植物園北遺跡で埋文確認(京都新聞:2013年2月8日:2019年1月18日現在記事削除確認)
  2. 植物園北遺跡現地説明会のご案内(京都府埋蔵文化財調査研究センター)
  3. 平成24年度 現地説明会資料等(京都府埋蔵文化財調査研究センター)
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