長野味噌の倒産とキッコーマンの海外展開に見る老舗企業の挑戦

明和9年、この年は江戸三大火の一つ明和の大火など災害が相次いで起こったことで 迷惑年 と捩られもした厄年であったのでしたが、それより連綿たる企業として生き延びる 長野味噌 が信州小諸与良町に店を構えた年でもありました。 西暦で言えば1772年の其の年、第12代岡増兵衛が酒、醤油の醸造業を創業してより連綿と事業継続し 昭和34年3月には法人化、老舗味噌製造業者として古法醸造味噌・健康ブランドなど展開しながら 2百有余年経た今年2014年の年度替りに残念な仕儀と相成ってしまいました。 東京地裁に1日、破産手続開始を申し立てた同日に破産手続開始決定を受けた[※1・2] のです。 負債総額は約14億円とされます。

社員数61名、資本金が6,000万円の企業には海外販路拡大を目論んだ 1994年の中国工場建設、97年からの本格稼動への設備投資が、 思うように売上が伸びない中、重く圧し掛かったようです。 此れを身の丈に合わない、無駄な設備投資、などと外野から謂われ、揶揄もされるのは 勝てば官軍、負ければ賊軍として致し方ないのかも知れません。 しかしでは其の如き挑戦はなされない方が良かったのでしょうか?

テレビ東京の人気番組 カンブリア宮殿 の2013年3月21日放映分[※3] では 世界を変えた!スッゴイ挑戦スペシャル と題され海外展開への勇気有る挑戦を実践した2社が取り上げられる内、 片やアラブ市場へ挑戦したユニチャーム社であり、 片や老舗企業にして12年3月期の売上高2,832億円を誇る キッコーマン でした。 率いる創業家御曹司にしてキッコーマン名誉会長 茂木友三郎もぎゆうざぶろう 氏は意外ですがそう言われれば成る程と肯かせしめられる主張をします。 醤油は大豆、塩、小麦を原料とし、微生物に依る醗酵で造られる、 即ちバイオテクノロジーの最も古い製品の一つであると言うのです。 醤油の味を決める麹菌はキッコーマンでは其の名も キッコーマン菌 と称し脈々と受け継がれ門外不出となっています。 醤油は身近だから分かり難いが複雑な商品であるのでした。 醤油がそうであれば味噌とて醗酵食品であるのは同じでしょう。 野田醤油が何百年もバイオテクノロジーと付き合っているのであれば 長野味噌も何百年もバイオテクノロジーを以て世を渡って来ました。 謂わば長野の味噌と野田の醤油は同根でもあると言えるでしょう。

長野味噌が海外進出を余儀なくされた様子が窺える事情は、 またキッコーマンに於いても同様なのは至極当然でした。 実際データを見ても総務省の統計局調べに於いて 1人当たりの醤油購入量は1985年に4ℓ近くあったものが2000年には3ℓを切り 2012年には2ℓ程と30年間でほぼ半分迄減少、 また農林水産省のデータを見ても明瞭に右肩下がりを示し[※4] 最早、急速に進む醤油離れと言っても過言ではない状況下、 危機感を抱かない方がおかしいのでした。 しかしキッコーマンが危機感を抱いたのは此れ等データが示す2000年前後が最初ではありませんでした。 其の始まりは50年前、其の時アメリカ市場に捨て身で挑戦したのが誰あろう、 現キッコーマン名誉会長茂木氏其の人であり、 氏は1,000億円市場を創り出した伝説の男として今にあるのです。 2012年3月期に於いてはキッコーマンの売上高海外比率は日本が1,570億円であるのに対して、海外1,283億円と45%、 営業利益に至っては日本53億円に対して、海外121億円と69%もの高率を示しています。

キッコーマンの本社は現在東京にありこそすれ、 その本拠地は江戸川を渡った向こう側千葉県野田市醤油どころなのはお馴染みでしょう。 野田が醤油どころとなったのは其の地の利にこそありました。 江戸川と利根川に挟まれた野田は近隣から醤油の原料となる大豆、塩、小麦を調達し易く 同時に製造した醤油には大消費地江戸が控えていました。 キッコーマンの誕生が1917年、即ち明治にもない大正6年と割りと遅いように思われるのは実は 当時の時勢として様々な業界に於いて工場の機械化進められており、 醤油製造に於いても工場を機械化するためには或る一定規模以上の工場を造らないといけない、 従って近代化を進めるに際し規模の底上げを図るためとあって、 小規模な事業者が集ったのが其の始まりだったからでした。 其れ迄連綿と醤油造りに携わって来た 野田の茂木6家及び高梨家と流山の堀切家が其の事業者達でした。 12月19日付けの謹告と題書された野田醤油、即ち現キッコーマン設立の挨拶状には以下の7名1社が連署しています。

醤油蔵 photo credit by k14
  • 茂木佐平治
  • 茂木七郎右衛門
  • 高梨兵左衛門
  • 茂木七左衛門
  • 茂木房五郎
  • 茂木啓三郎
  • 野田醤油合資会社
  • 堀切紋次郎

この時選ばれた最も美味しい銘柄の醤油が茂木佐平治家のキッコーマンだったのです。 こうして大正期に近代化を果たしたのも危機感ゆえと言えるかも知れません。 しかし根本的な需要減退を逼迫して感じたものではなかったでしょう。 其の如き危機感をキッコーマンに抱かしめたのは もはや戦後ではない と経済白書に謳われた1956年でした。 この年にこそキッコーマン経営陣は切迫した危機感を抱いていたのです。 戦後欧米化する国内市場では昭和30年頃になり醤油需要が伸び悩んで来ていました。 大凡が生活必需品の醤油の1人当たりの消費量がそう劇的に伸びる筈もありません。 そして翌1957年アメリカ市場に進出、サンフランシスコに販社が設立され 先ずは醤油の味をアメリカ人に知ってもらうために店頭の試食販売を実施しました。 1960年ニューヨークのコロンビア大学の経営大学院に留学していた茂木氏は 夏休みにはこの店頭のデモンストレーションを手伝い、 最初こそおっかなびっくりだったものの意外に味わえば買ってくれる人が多いのを実感、 兎に角地道な作業ではあるもののしかし、見ていると効果覿面であり、 此の時醤油はアメリカや海外で売れるかも知れないと強く感じた、と述懐します。

ところが其の実感にも関わらずサンフランシスコは5年以上経っても慢性的に赤字を垂れ流す状況が続きました。 此れを1961年アメリカ留学から帰った茂木氏は問題視し、其の原因を徹底分析した結果 赤字解消にはアメリカに工場を造るしかない、と結論付けたのです。 この結論の実践はちょうど長野味噌が中国進出を賭け工場に設備投資したのと同じくキッコーマンには大き過ぎる挑戦でした。 其れと言うのも掛かる工場建設費はキッコーマンの資本金を上回る巨額が試算され 失敗すれば経営の根幹を揺るがし兼ねない危険な賭けでもあったのです。 創業家の出とは言え茂木氏が此の提案を上層部に呈した1965年は未だ副課長時代、 流石に失敗の際には会社を去る覚悟を以て臨んだと言います。 会社としても、相当大きな決断には違いなく時期尚早として棚上げされるも 茂木氏は根気良く上司の説得を続け1971年の取締役会で漸く工場建設決定したのでした。

アメリカ工場に選定された地は日本の野田を思わせる 小麦など原料が豊富で大消費地シカゴに程近いことからウィスコンシン州の 人口僅か2,000人のウォルワースに決定されましたが、 しかし本当の戦いは此処からであったとも言います。 農地ばかりが広がる田舎町で先祖から受け継いだ土地を守る農民達の予想外の大反対住民運動が勃発したのでした。 住民達一人一人を地道に説得、持続的経済効果について語り、 此の地域に工場に拠り明るい未来が齎されると 2ヶ月くらい農家を訪問したり、農民の集まりに行ったりして説いて回った茂木氏は相当苦しかった旨、告白しますが、 今となれば雨降って地固まると言い習わせる通り、返って反対運動があって良かった、とします。 一所懸命説得して回って仲が良くなり、地元の人々も納得してくれ、 又其れがために地元の為の良き企業市民となるように工場づくりを心掛け、 今の現地でのキッコーマンの評判は頗る良いものとしてメディアに紹介されます。 1973年、地元の許可を取り付け、キッコーマン・フーズ本社工場が完成した時、 茂木氏の提案から8年が経っていました。 其の2年後、茂木氏の分析通り採算性は改善された1975年、アメリカに単年度黒字を達成します。

造る場所がアメリカでも造り方は日本と全く同じであり、 昔ながらの自然の醸造での醤油造りが貫かれています。 海外への販路拡大を目論みながら此処が重要な点でしょう。 加えて面白いのは醤油の本分たる肝を貫けば後は現地に合わせる戦略です。 1960年キッコーマン初期の広告には醤油レシピが数多く踊りますが 其れ等は全て肉のレシピとなっており、此れがアメリカ攻略の基本戦略となっているのです。 キッコーマンは決して寿司など和食を通して醤油を広めようとはしませず飽く迄現地料理で勝負しました。 其処にはキッコーマンの醤油はどんな料理にも使える万能調味料である、という矜持が伺えもします。 又恐らくはアメリカで和食を通して使われる醤油は全体の1割程度なのではと茂木氏が述べるのは キッコーマンが現地料理展開した戦略が正しかったことの証明ともなるでしょう。

キッコーマンでは実は先ずお寿司に、と云う発想自体がなかった、と言います。 戦後には多くのアメリカ人が来日し、 ビジネスマン、ジャーナリスト、学校の先生などが町の中に住みました。 彼等が日本人の生活を見た時、毎日何か未知の黒い調味料を料理に使っています。 好奇心から其の液体調味料を最初は日本料理に、次第にアメリカ料理に使ってみるようになりました。 其れをキッコーマンの茂木氏の先輩諸氏は見ており、 アメリカ人の中にも恐らくは潜在需要があるのではないか、 うまくマーケティングを行えば其れを顕在化出来るのではないか、 と感じていたのです。 従ってこそ和食ではなく肉に合う、と云う販売戦略を成し得たのでした。 アメリカ攻略50年、今ではアメリカ向けに グルテンフリー(小麦不使用)の醤油などもラインナップ、スーパーマーケットの棚を飾っているのでした。

アメリカ市場をキッコーマンに成功裏に導いた茂木氏は社長となった時、 キッコーマンの企業体質を挑戦的なものに変える と宣言したと言います。 この体制化から近年生まれたヒット商品が しぼりたて生しょうゆ であり、毎日食べたい味がある、のCMでお馴染みの 和風おそうざいの素 うちのごはん シリーズでした。

前者生しょうゆはお馴染みだった赤い頭にガラス胴体の醤油差し、所謂国民的商品の 特選丸大豆しょうゆ とは違う密封ボトルに封入され常温保存でいつでも新鮮を売りに 醤油としては約20億円と異例の売れ行きを示しています。 醤油作りに不可欠の最終工程での加熱処理を一切行わないことで新鮮さの齎された醤油を開発、 また此れを市場に出すにはボトルの内側の袋に醤油が入っている2重構造の新容器を開発したからこそ可能となった新商品でした。 醤油を使うと内側の袋だけが潰れていく仕組みに依って 醤油が空気に触れての酸化が起こり難くなり新鮮さを保てる容器の開発にも相応の苦心があったとのことですが、 元々新鮮な醤油が此のボトルで更に長期間保たれることとなったのです。 醤油業界の王者として君臨しながら尚、過去を否定し新しい形、価値を提案して大ヒットを生み出したのです。

此の前者が直接的な醤油需要の喚起とすれば、 間接的に醤油需要を向上させるもう一つのヒット商品が後者である、 と言うのも現在23種類発売中のうちのごはんシリーズには必ず醤油が仕込まれているのです。 例えば じゃが豚の甘辛てり煮 には、たまり醤油、濃口醤油、再仕込み醤油、丸大豆醤油の4種類の醤油が調合、ブレンドされています。 普通の家庭ではこのように多様な醤油が用意されている筈もなく、 またプロの醤油使いのセレクトだから美味しい筈です。 此の商品には以下2点の配慮が施されてもいます。

  • 調理時間は10分以内
  • 使用食材は2品以下

美味しくて手間が掛からず更には此の手の商品には今迄中華はあったけれども和風のものがなかったことも手伝い大ヒット商品となりました。 女性の社会進出でメーカーが主婦の作業代行するのがコンセプトである此の新商品の目論みは図星だったのです。 そして以上を見れば此れが醤油を売るための、 激減した家庭の醤油消費を抉じ開けるキッコーマン執念の商品であるのは容易に理解出来るでしょう。 うちのごはんは唯に醤油メーカーに甘んじることなく 企業体質を挑戦的なものに変えるためにも出していかなければと茂木氏が考えた商品であり、 新しい物を作って売ることで企業が挑戦的になって行く、とする氏の理念の具現化でもあります。

アメリカ市場を見事に捕らえて見せたキッコーマンは今ヨーロッパに進出せんとしています。 キッコーマンのエースは当地で15カ国担当し、其の1国にブルガリアがありました。 意外にブルガリアでは醤油の認知度は高いものでしたが、日本の其れではありませんでした。 ベトナム産など東南アジア製の日本の醤油とはかなり異なる醤油が普及し切っていたのです。 其の中でキッコーマン醤油を拡販せんとするエース氏は 地元の飲食店関係者に醤油を広めんとするに当たり、日本の料理人を先生に招きケンチン汁に天麩羅を紹介します。 一足飛びに現地の料理に使って貰うのは難しく、先ずは日本料理は寿司だけではないことを啓蒙していこうとしているのです。 其れはまるで戦後日本に遣って来た外国人が日本の食卓を遠目に眺める様を再現するかのようでもあります。 茂木氏は海外で仕事をすることはリスクもあるし簡単では無く、挑戦的にならねば結果が出なくもあり、 海外で仕事をしている人物は自然に挑戦的になると見ています。

茂木氏はキッコーマンは上手くグローバリゼーションに乗れている、と自己評価し、 其処は積極的に遣って行くべきだと考えています。 日本が高度経済成長期にある時には割合何をやっても上手く行ったものだが、今は其の様な時代ではなく 特にリスクを取る覚悟がなければ何事もなしえず、 然るに企業は挑戦するべきであると強く主張します。 企業はリスクテイクをしなければ或る意味存在価値が無い、と迄言い切ります。 なんとなれば市場経済の中で競争をしてこそ付加価値を高めていくこととなるからで、 挑戦しなければ企業の本質的なものを否定することになる、とします。 また同時に個人も同じ、リスクテイクを全くしないで一生を送ることは味がないよ、と笑いながら話すのでした。

キッコーマンは逓減する需要の前に需要を創造するには老舗に甘んじずリスクを受け容れねばなりませんでした。 其れと同様のことが長野味噌にも言えたでしょう。 老舗として安定した事業を営むとは言え、 漸次減少していく家業の味噌需要を前に唯手を拱いている訳にはいかなかったでしょう。 味噌需要を創造せんとし、其の為の努力をすればリスクを伴うのも必然でした。 挑戦した時に成功と失敗に明暗が分かれるのは致し方有りません。 長野味噌は失敗し、キッコーマンは成功しました。 キッコーマンの施策を後から見れば確かに海外戦略が現地料理からの展開を図りながら 製造法自体は日本と全く変えないなど、正鵠を得たものでもあったでしょう。 しかし其れは事前には与り知られないものです。 以て長野味噌の中国投資を闇雲に攻められないようにも思うのです。

使用写真
  1. さらに混ぜます( photo credit: dreamcat115 via Flickr cc
  2. 醤油蔵( photo credit: k14 via Flickr cc
参考URL(※)
  1. 倒産情報 大型倒産速報 長野味噌(株)~破産手続開始決定(東経ニュース:2013年4月2日:2019年9月1日現在記事削除確認)
  2. 長野味噌が破産手続き:長野(CHUNICHI Web)(中日新聞:2013年4月2日:2019年9月1日現在記事削除確認)
  3. 2013年3月21日放送 キッコーマン名誉会長茂木友三郎氏、ユニ・チャーム社長高原豪久氏(カンブリア宮殿:テレビ東京:2013年3月21日:2019年9月1日現在記事削除確認)
  4. しょうゆ業界におけるめんつゆ・たれ類の動向等(農畜産業振興機構:2008年10月)
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