藤原良相邸西三条弟跡地の発掘調査の成果~平仮名と藤原摂関家の黎明期

平仮名の成立期が50年ほど早まる可能性のある発見がなされた、 とは大手メディアにも多く取り上げられる処ですが、 例に因って専門家にあらぬためか内容は揃っていながらも、 どれも一向に要領を得られない記事ばかりです。 平安時代の貴族の邸宅跡地から大量の最古に属す文字資料が発見されたというものですが、 その発表を行ったのは 財団法人京都市埋蔵文化財研究所 とありますから其方を参照した方が好いかも知れません。

同サイトには埋蔵文化財研究所・普及啓発活動報告の新着情報として 京都市考古資料館速報展『藤原良相邸出土の墨書土器』開催のお知らせ が用意されており、成る程平安時代の貴族と言うのは 藤原良相ふじわらのよしみ であり、同研究所がサイト上に去年2011年12月10日に配信した資料PDFファイル[※1] に引用される 平安時代史事典 に依れば西暦813年から867年を生きた平安時代前期の公卿であるのが分かります。 因みに事典には「良相」の読みを「よしみ」と振ってありますが、 Wikipediaの当該項目[※2] を見れば併せて「よしあう/よしすけ」とも読まれるとも記されています。 当該人物の屋敷跡から発掘された土器には平仮名が墨書されており、其れが貴重な発見であるのは、既にWikipediaにさえ記されている処です。

『改訂増補 故実叢書22巻 禁秘抄考註・拾芥抄』明治図書出版株式会社 1993年 付図「西京圖」(平安京右京三条一坊六町跡(第3調査区)現地説明会資料)
『改訂増補 故実叢書22巻 禁秘抄考註・拾芥抄』明治図書出版株式会社 1993年 付図「西京圖」(平安京右京三条一坊六町跡(第3調査区)現地説明会資料)
浜松市の伊場遺跡群から発掘された奈良時代から平安時代前期に掛けての墨書土器には漢字が書かれており平仮名は見られない(2018年6月11日撮影)
浜松市の伊場遺跡群から発掘された奈良時代から平安時代前期に掛けての墨書土器には漢字が書かれており平仮名は見られない(2018年6月11日撮影)

この土器の数が大量に上るため考古学的にも史料としても実に価値があるのであって 平仮名成立期であるとされる9世紀辺りに不足する資料を埋めるものともなり得、 それが従来の説を補強すればまた覆す面もあると考えられるのでしょう。 この発表、公開に当たり京都市考古資料館に速報展として催される旨が 上記紹介リンク先に知らされるのでした。 開催期間は今年11月30日から12月16日までと明日からとなっていますから、 詳細を知りたい向きはこれに出向くのが最も早道となるでしょう。 出土した墨書土器の展示は勿論、詳細も知れるでしょうが、 この情報発信がホームページに上手く為されていないのは 此の手の組織には有り勝ちな処で度々目にすれば改善が望まれます。 公共機関であれば発掘ばかりでなく情報公開も良好な状態が保たれて然るべきであり、 同サイトには情報検索性ももう少し改善されるべきでしょう。

佛教大学二条キャンパス    大きな地図で見る

藤原良相邸跡の調査は今に始まったものではなく同財団では2002年の 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2002-01を皮切りに以下の如き概報が PDFファイルとして用意されており、他にも 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報(シリーズ) からアクセス可能となっていますので、 些か専門的な嫌いはありますが詳細を知りたい向きには便宜が図られています。

前世紀から研究が進められていたのは勿論、 今世紀になろうともそれは粛々と継続され、 今般の研究成果となって日本の国風文化の歴史に転換を迫るべきものと結実しているのでした。 従って近年にも成果が上がっているのを 現地説明会の配布資料 として用意されてもいて役立つでしょう。 本記事冒頭に掲載した図も、同財団の去年2011年12月10日に配信せる現地説明会資料PDFファイル[※1] から転載したもので 平安宮復元図 から程近い藤原良相邸の位置を示しているものです。 今回の発掘現場としての 佛教大学二条キャンパス 位置もGoogleマップを用いて右上に掲載しておきましょう。

同資料には下に示す図の如き600分の1の周辺調査位置図で 上にリストアップした資料に記されるものより更に藤原良相邸の蓋然性が高いものとされています。 今回の発掘資料整理と相俟って速報展には更に詳細が知れるでしょうし、 今年2012年12月15日に予定されている丸川義広氏に依る文化財講座 佛教大学二条西キャンパス(藤原良相邸)の発掘調査[※3] もなお実りあるものとなるでしょう。

周辺調査位置図(1:600)(平安京右京三条一坊六町跡(第3調査区)現地説明会資料)

さて、藤原良相とは如何なる人物かと言えば、 同研究所資料が引用する処の 平安時代史事典 を見れば、上に記した生没年の他にも、凡そ以下抜粋概略の如くとされています。

  • 藤原冬嗣の第五子で人臣最初の摂政になった藤原良房の弟であり女は文徳天皇、清和天皇の女御となっている。
  • 承和9年(842年)承和の変に際し左近衛少将として皇太子直曹を守衛。
  • 重職を歴任し、天安元年(857年)右大臣に就く。
  • 貞観8年(866年)の応天門の変に良房と水面下に政治的争いを繰り広げる。
  • 文学を愛し仏教にも通じ自活不能の一族子女のたまに延命院、崇親院を設立、その扶養、助成に意を用いる。
  • 度量が広く才弁に富み民政に尽力したと称される。

良相が西三条大臣と号するのは今回発掘調査された邸跡の所在地に正しく由来するのであり、 同書にはその館、 西三条弟にしさんじょうてい についても以下の如く記されます。

  • 平安京右京三条一坊六町にあった。
  • 拾芥抄 右京図には六町とされるが同書本文は三条北朱雀西とし、これは四町に該当する。
  • 百花亭 とも称する。
  • 皇太后藤原順子は東宮より当邸に遷御、ほぼ一年の滞在期間がある。
  • 清和天皇の行幸も貞観8年3月にあり、桜花の宴を開いている。

この文の末尾にはその後の当邸の伝領、消息は全く不明、 と結ばれており、然れば発掘調査に徐々に明らかとなって来ている訳で、 副産物として平仮名の黎明期を窺い知る資料も発見されたのは幸甚でした。

経歴に明らかな通り良相は藤原鎌足、不比等と続く藤原嫡流に 不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家が正にそれを継ぐ節目となる 冬嗣、良房、基経の時代に在りました。 道長、頼通の絶頂期、五摂家に繋がる藤原摂関家の黎明期に生きたのです。 其処が平仮名文化の花開く館として栄え、 いつしか西三条邸は忘れられ千年余を越えて今の平成の世に 平仮名の黎明期を伝える役目を担うのを考えた際、 その趣きの深さに不図感慨無量の感を致すものです。

追記(2012年12月14日)

本記事に関連してNHKの解説委員室ブログの記事 くらし☆解説 「"ひらがな"はいつから?」 (2019年12月24日現在記事削除確認)が平仮名の成立期と今回発見の土器に書かれた平仮名について解説しており、 その説明がとても分かり易く参照をお薦めします。 本件に関しては未だ研究者も断定の出来る部分は少ないようで 従って関連情報が一般に出て来るのも追々のこととなりそうです。

使用図写真
  1. 平安京右京三条一坊六町跡(第3調査区)現地説明会資料(財団法人京都市埋蔵文化財研究所:2011年12月10日:PDFファイル)
参考URL(※)
  1. 平安京右京三条一坊六町跡(第3調査区)現地説明会資料(財団法人京都市埋蔵文化財研究所:2011年12月10日:PDFファイル)
  2. 藤原良相(Wikipedia)
  3. 平成24年度 京都市考古資料館 催し物のご案内(京都市埋蔵文化財研究所:2012年8月)
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