三木城跡及び付城跡・土塁の史跡新指定

視聴率的に今年2012年は大惨敗に終わったNHK大河ドラマの 平清盛[K1] ではありましたが来年、再来年までもその予定は既に決まっており、 2013年は綾瀬はるかさん演じる処の同志社創立者の新島襄の妻女八重を主役とした 八重の桜 、2014年は竹中半兵衛と共に両兵衛と称される豊臣秀吉の参謀黒田孝高如水の生涯を描く 軍師官兵衛 であるそうです。

現在の兵庫県に当たる播磨の国には戦国時代 播磨三大城 と呼ばれる城が並び立ちその内の一つに 御着城 があり、官兵衛は此の城を中心に勢力を扶植する小寺家の下にありました。 時に織田信長が中央近畿を制し播磨にも進出せんとした際に 官兵衛はその傘下に参じたのでした。

大勢力の狭間にある少勢が生き残りを賭けては様々な動きを示すものですが、 東から織田の、西からは毛利の脅威を受けた播磨は正しくその状況下にあり これ等播磨三大城も紆余曲折を経ることになります。 中にも別所氏の 三木城 は其の動きの著しいものでした。

播磨三木城は今は上の丸駅の南側となる丘陵に築かれた平山城で 本丸は公園となっており他は住宅用に造成されているものの 散策すれば随所に当時の面影が髣髴とされる[※1] のだそうです。 しかし戦国の世、天正6年(1578年)3月から天正8年(1580年)正月に掛けての2年間、 彼の秀吉の兵糧戦法として有名な 三木の干殺し を含めた織田軍と別所長治との間で激しい攻城戦が繰り広げられた其の場所でもあります。

この戦陣には 荒木村重 がありました。 しかし攻城開始より数ヶ月経た7月、突如村重は戦線離脱、 有岡城に帰陣して織田に反旗を翻し立て篭もったのも吾人に周知されている処です。 この篭城戦は毛利の援軍のないまま一年以上にも渡りましたが抵抗敢え無く 翌天正7年(1579年)10月19日に開城となりました。

この時開放されたのが誰あろう黒田官兵衛であったのも知られる処でしょう。 稀代の策士でありながら自身に重大な局面でその策が上手く働かない局面があり、 後に関が原の合戦で鎮西鎮圧を試みるも即日勝負が決した際もそうでしたが、 其れ以上に生命の危機に晒されたのがこの有岡城での一年間に及ぶ投獄でした。 秀吉方の使者として村重を説得せしめんと乗り込んだ城に捕縛されてしまったのでした。

従って織田の播磨進出の時期は官兵衛に取っては生涯で最も運命の揺れ動いた時期であったでしょう、 三木城攻略も忘れ得ぬものだったのではないでしょうか。

さてこの如き天下人に最も近付いた織田信長に取っても、 直接攻め手の大将となった後の天下人豊臣秀吉に取っても、 その参謀として天下を取らしめ、自らは豊前中津12万石城主となった黒田官兵衛孝高に取っても、 重要な事件である三木城の攻防の様子を窺い知る遺跡が歴史上、学術上に価値が高いものとして 文部省に依って国指定の文化財の一つである 史跡 に指定されるべき旨、文化審議会が答申[※2] (2019年4月19日現在、[※2]ファイル削除確認につき[※3]ファイルへのリンクを追加しました。)しました。 具体的な遺跡の名称は 三木城跡及び付城跡・土塁 とされています。 以下にその概要を文化庁報道発表から引用します。

天正6年(1578)から8年にかけて、 織田信長と別所長治の間で行われた三木合戦に関わる遺跡。 別所氏の居城、三木城を取り囲むように、織田方の複数の付城や土塁が良好な状態で遺存している。 なかでも、織田方の将、羽柴秀吉が陣を構えた平井山ノ上付城跡は、三木城の北東の山上に立地している。 付城の中でも群を抜く規模を持ち、山腹には複数の曲輪が展開している。 また、三木城を挟んで平井山の対角の位置にあたる法界寺山ノ上付城跡は、宮部善祥坊の陣跡と伝えられる。 平井山ノ上付城跡に次ぐ規模を持ち、 山頂部には周囲を土塁で囲んだ方形の主郭とそれに西接する長方形の曲輪を有する。 この付城の南東部からは数条の土塁が認められ、 三木城の南方に存在する付城群を連結しながら、三木城南方を囲む。 これらの土塁は、三木城包囲のためだけでなく、 背後からの毛利方による攻撃を防ぐために織田方が築いたものと考えられる。 三木合戦は、後に羽柴秀吉によって、 鳥取城や高松城などでも行われる広範囲に堅固な包囲網を形成させる包囲網戦の最初の事例であり、 当時の合戦のあり方や展開を知る上で重要な遺跡である。

今回の指定に於いては領主の居城と同時に攻めて側の構築した包囲網である 付城及び土塁が一体のものとして保護される、 史跡としては初めての形となるそうです。 それは学術的にも兵糧攻めがどのような布陣を以て臨むものか具体的に知り得る形態となるもので、 史学に及ぼす影響も小さくないでしょう。

より大きな地図で 播磨三大城 を表示

NHK大河ドラマは所縁の地の観光資源に供されることも多く 地元の期待も高いものです。 今回の三木城攻城戦遺跡の史跡指定に当たっては是非これを以て観光客を誘致したい処でしょう。 近年は大河ドラマに物申す地元自治体の首長なども見られるようですので、 2014年の大河ドラマには何某かの圧力が掛かるかも知れません。 それは笑い話としても、大河ドラマが50年もの長きに渡り愛されて来たのは ドラマを楽しみながら日本の歴史背景を窺い知ることも出来るのに与って力のあるもので、 製作陣、中にも脚本家は以て胸に銘記すべきものでしょう。 くれぐれもクローズアップばかりに頼る デッサン力のない漫画家の描いた漫画の如くに堕してしまわぬよう 心理描写とやらにばかり走らない学術的にも納得の行く骨太の構成が望まれるものです。

かたむき通信参照記事(K)
  1. 平清盛は沈む夕日を呼び戻せず~NHK大河歴代最低視聴率(2012年12月10日)
参考URL(※)
  1. 播磨三木城(お城の旅日記)
  2. 史跡等の指定等について(文化庁報道発表:2012年11月16日:2019年4月19日現在ファイル削除確認)
  3. 第131回文化審議会文化財分科会議事要旨(文化庁:2012年11月16日)
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