中央と地方の狭間から歴史を見る『近江から日本史を読み直す』書評

地方であって地方でない、 地方と中央の狭間にある如き地域が近江の地と言えるでしょう。 実際に古来から何度も遷都の地とされていますし、 継体朝の発祥の地ともされています。 静岡県の浜名湖を遠江、即ちとおいうみ、と呼んだのに対すものとは言え、 ちかいうみの意なる近江琵琶湖を取り巻く一帯の命名は その狭間感をも含む絶妙のものとなったように思います。

従って近江の地は特筆すべき事項が多いものです。 日本で最初に環境破壊が実施されたのは田上山でしたし、 現代の国会図書館、国立公文書館に相当する官務文庫は 近江出生の小槻氏の私文庫でした。 この文庫は応仁の大乱の最中も洛中の真ん中に在って両軍に安全を保証されたと言います。 また近江は村落の自治組織である惣が全国で最も早い時期に見られた地域でもあるのです。 そして近代に至っては日本人の手に依る大土木事業が着工されたのも 琵琶湖から京阪への疎水工事でしたし、 これは京都蹴上に於ける日本初の水力発電にも繋がるものでした。

この中央と地方の境界の曖昧模糊たる近江より改めて日本史を俯瞰しようと試みたのが 京都出身で幼い頃より近江の地に親しんだ 今谷明 氏の2007年に上梓せる 近江から日本史を読み直す (以下、本書) です。 本書は2005年から2007年に掛けて産経新聞関西版に今谷氏により連載された 近江時空散歩 を通史の形式を取ろうと時系列にまとめなおして刊行されたものです。

本書第1章は古代、として始まります。 やはりその嚆矢は継体王朝となるべきでしょう。 同王朝の出自である息長氏の地盤として近江は先ず登場します。 聖徳太子の時代を経て近江には遷都がありました。 白村江に一敗地に塗れた天智天皇が都を遷したのが大津京でした。 古代中央の機能を近江が有していたことが分かります。 そしてこの都は壬申の乱の敗北に攻め込まれる運命でもありました。 この乱に70と数年都は近江を離れますが遷都の喧しい聖武帝の時代に 紫香楽宮として戻って来もしました。

近江の地は秀吉の時代に太閤検地でその石高を78万石とされています。 これは陸奥国を除き全国一で2位の武蔵国の67万石を11万石も離す豊かな国です。 古代よりこの豊穣さを有するからこそ近江は都であっても それが離れても重要な地に違いありませんでした。 そしてこの大国近江の国司を歴任していた家系こそ藤原氏であったのです。 藤原氏が連綿と政治に影響を保ち得たのも このことを抜きにして考えられないものなのかも知れません。

第2章の中古はほぼ宗教的な展開に終始し、 中心人物も比叡山延暦寺開祖の最澄を始めとする僧侶ばかりです。 しかしその中に最も名前の登場するのが頻繁なのは織田信長なのでした。 当時は未だ生まれていないにも関わらずです。 その事跡は殆んどが寺社の破壊に因るもので、 それが現代と中古の断絶を産む処に信長は登場するのでした。 葛川地域などは僻地であった故焼き討ちを免れ唯一中古、中世資料に恵まれる、とされる程です。

斯くも近江をこの如き視点から見たとき信長と言う存在は外せません。 これを以て近江に幼い頃から馴染んだ著者は信長研究を進める発端になったのではないか、 と言う気がします。 この時中古と現代と繋ぐものはその寺社の建築物です。 中古には宗教的に終始する内容にこの理由で伽藍と 大工達の物語も登場します。 近江はまた国宝建築物の嚆矢も存在する宝庫であるのです。 そして江州甲賀の大工仲間などクラフト・ギルドなども紹介されるのでした。

未だ白河法皇が天下三不如意の一つとした叡山の山法師と挙げ、 日吉神人達の齎しもする強大な財力は当世政権の御し切れないものであるとは言え、 時代は第3章、中世へと確実に移り変わるに連れ武士が台頭し、 近江の舞台にも登場し始めます。 西に勢力を持つ平氏の時代には目立った事跡は記されませんでしたが、 東の源氏に至ると共に勝敗に関わらず近江の地は関わって来ます。 旭将軍木曽義仲が落命したのも近江泥田の地でしたし、 承久の乱に北条泰時を大将とする東軍が気勢を上げたのも近江野路宿でした。 そして源頼義三男新羅三郎義光が元服したのも新羅明神をいただく国宝新羅善神堂が湖西に、 湖東の不破の関中山道手前の番場には蓮華寺が六波羅探題終焉の地として 鎌倉時代に最後のエピソードを添えています。

宗教が人々の暮らしに及ぼす影響は大きなものであると共に 宗教は当世の民衆の認識、志向を反映するものであるのは現代と変わりません。 鎌倉後期の時代思潮は人法繁盛、人法興隆であり、 これは鎌倉新仏教の人間観を反映してもいるだろうと本書はします。 中世は神仏習合の時代でもありました。 寺院は必ず境内社、鎮守社を、大きな神社には別当寺や神宮寺を設けるのが常であったのは 近江に限らず日本人の特性を窺わせるものにも思えます。 そして鎌倉新仏教の母胎こそ比叡山でした。 祖師達は皆その若い時期を叡山に修行を積んでいます。

本書には宗教人は鎌倉新仏教の祖師達を始め多く登場しますが、 近江に修行を積んだ一休宗純など取り上げられ面白く読ませます。 一休はご落胤であるのは疑いなく、皇統と宗教の関係を伺えもします。 政治と宗教は関係の深いものに違いなく、 常に寄り添うものでもなく時には対立を鮮明にしもします。 3章の終わりの段には足利義教が登場し、 織田信長の雛形とも言われる宗教との対峙が書かれます。 義教は二十余年間青蓮院門主の地位にあったばかりでなく、 天台座主も兼ねると言うこの上ない高僧であったのですが、 これが還俗して将軍職を得、専制的政治を実践し、 比叡山をもその圧政下に焼き討ちの憂き目を見たのは 時代の流れから見ても興味深い処でしょう。

受けて時代は第4章中世の後半へと移り愈々武士の独壇場となり、 宗教色は幾分薄くなります。 その中に惣村や近江商人が登場し愈々吾人の馴染み深き世に近づいて来ます。 武将は旧来の佐々木氏由来の京極、六角に加え朽木、浅井などが登場、 但し宇多源氏に出自を持ち南北朝期に12ヶ国もの荘園を支配し 幕府奉行衆に名を連ねた朽木氏と異なり応仁の乱以降に出た江北3郡の領主に過ぎない浅井氏の名が 後世に残ったのは信長との関係故と著者は記します。 中世最後の段はこの浅井氏と連合した朝倉氏勢力と信長との対決により閉じられます。 続く第5章安土桃山時代の幕開けです。 此処まで未だこの世に生を享けないながら名の頻出した信長の時代が遂に遣って来ました。

そして第5章には安土桃山の時代が開かれます。 これに1章割くのは如何に近江の地に信長の存在が大きいものであるかが分かります。 筆者をして信長研究に向かわせるのも宜成る哉、と言うものです。 しかし信長の時代は時期的に長いものではありません。 近江と信長を繋ぐ象徴的な事案を本書は2つ紹介します。 一つは此処迄にも度々登場した 比叡山焼き討ち であり、そしてもう一つが天下取りの象徴としての 安土城 です。 第5章をこの安土城を嚆矢とする近世城郭で綴られると見てもいいでしょう。 安土城に続くのが明智光秀の 坂本城 、羽柴秀吉の 長浜城 、羽柴秀次の 近江八幡城 、石田光成の 佐和山城 、幻の水城 大津城 、瀬田の唐橋唐金擬宝珠水に映るは膳所の城と詠われた 膳所城 などがざっと挙げられます。 長浜城などは後に掛川城主、土佐藩主と駆け上がる山内一豊の封じられた城として、 秀次が近江八幡に封じられた際の老臣でもありもし興味深く思う処です。

信長の安土築城当時配下に城持ち大名となったのは 譜代を抑え明智光秀と羽柴秀吉のみにてこの二人の織田政権下の重みが伺えますし、 その二人の坂本城と長浜城、及び安土城が琵琶湖に水運ネットワークを成しているのも 信長の近江構想を垣間見られる事案でしょう。 中古は宗教大伽藍のものでしたが中世は蓋し城郭のものだと言えるでしょう。

またこのような華麗な城郭文化のみならず本書には 近江の闇の部分をも紹介されます。 即ち南山城、北大和と共にこの地方の南方、南近江には落ち武者狩りの慣行があると言います。 信長を本能寺に斃した光秀も秀吉に一敗地に塗れ、落命したのは山城は小栗栖でしたが、 本能寺の際、一旦は自決を覚悟したと謂われる神君生涯の危難を 徳川家康が本国への逃避行を敢行した経路には近江甲賀の最南端がありました。 この時経路となった甲賀・伊賀は江戸の開幕の際、 政権の諜報機関として召抱えられたのは周知の処でしょう。

この第5章安土桃山の章が閉じられるには天下分け目 関が原の合戦 こそが相応しいものです。 合戦の地こそ行政上隣国の美濃となりますが、関が原は美濃と近江の国境上、 古来より地政学上の要地とされ此の地に壬申の乱も 南北朝の北畠顕家と幕軍との青野ヶ原の戦いも行われたのでした。 関が原の合戦に西軍をまとめる石田光成の佐和山城は勿論、 近江は京極高次の篭もる大津城を除き西軍方に与し、 高次の奮戦で立花宗茂を始めとする西軍1万5千を釘付けにしたのは 信州上田に徳川秀忠の軍を足止めした 真田昌幸 と好一対として本書に紹介されます。

そして本書末尾に設けられた最終は第6章近世、近代としてまとめられるのは、 厭戦の高まりから戦国も終焉し世情も落ち着いた江戸時代がその前半となります。 従って近江にも多く文化人の登場を見るのでした。 増上寺、江戸城、日光東照宮を手掛けた名工 甲良宗広 であり、大塩平八郎に影響を与えた近江聖人 中江藤樹 であり、伊賀の人でありながら近江にも縁の深い俳聖 松尾芭蕉 です。 芭蕉はその遺言に依り近江義仲寺に葬られ源義仲の隣に眠ります。 他にも儒学者 雨森芳洲 が出、冒険家 近藤重蔵 の不遇な晩年、終焉の地でも近江はありました。

また中世に発祥したと見られる近江商人の活躍する場は若狭から伊勢との往還にありましたが、 この近代には北前船に見られる蝦夷から下関に至る 日本海全域から瀬戸内に迄広がったのも興味深いものです。

近江にも一揆はあり、 その一部は苛烈な制裁もありましたが概ね穏便に済まされました。 しかし閉塞感を齎す幕政が愈々行き詰まりを感じた幕末に登場したのが 安政の大獄を起こさせしめ、桜田門外の変に散った井伊直弼であり、 近江彦根藩主であったのは広く知られる処でしょう。

本書最後のエピソードとして語られる後のロシア皇帝ニコライ二世の皇太子時の 京都暗殺未遂事件の犯人の取調べは近江大津地裁でのものであり、 司法の独立が守られロシア外交にも影響し法のなんたるかを中央政府に悟らせた事件としてありますが、 ニコライ二世が日露戦争、第一次大戦、そしてロシア革命に落命と運命に翻弄されたように、 激動の近代を予感させるものでもありました。

恰も織田信長の物語を読んでいるかの如き感もある本書ではありますが、 決して往々見られる一人物に絞った視点から歴史を見るものではありません。 本書は人物中心の視点から離れて飽く迄、一地域からの視点に徹し書かれています。 そして一地域を基準に歴史を概観すると言う手法は実に刺激的なものでした。 地方分権の叫ばれる現代にはこの手法が学校教育にも取り入れられるべきだとも思います。 自らの暮らす地域と関われば自ずと歴史にも興味が湧こうと言うものです。

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