シチズンのエボーシュ(モジュール)戦略とラ・ジュウ・ペレ

第46回衆議院議員総選挙[K1] は去年2012年末に実施され政権が変わり半年を経、 経済の流れも今の処は想定のデフレスパイラル脱却の方向に流れてくれて、 少しづつ円安に向かっているようですが、 過ぎた円高は困るものの此れを随分と利用した日本企業も多く有ったのは、 彼の永世中立国スイスに対しても同様、様々分析[※1] もされています。 中には シチズン時計株式会社[追1] の名前も挙がっています。

Miyota 8217 photo credit by Technewatches
Miyota 8217 photo credit by Technewatches

シチズン時計は シチズンホールディングス株式会社 の時計事業部門なのは周知[追1] の処、グループ全体としての連結決算に此処数年間粗3,000億円辺りで推移する内、 売上高では2012年3月31日時点に海外比率が約60%のグローバル企業である中に 50%程と約半分を担っている[※2] のでした。 従って時計のメッカ、スイスの企業買収に動いたとて不思議はありませんが、 腕時計ファンから見れば其処には興味深い戦略が見え隠れするのではないでしょうか。 其の買収企業こそ Prothor Holding SAプロサーホールディングス でした。 プロサー社の株式を100%取得して完全子会社に収めた旨、2012年3月5日付けでリリース[※3] が発行され、メディアにも幾つか同日に報道[※4・5] がされています。

シチズンリリースに見ればプロサー社はスイスの La Chaux-de-Fondsラ・ショー=ド=フォン に本拠を構える持株会社で、腕時計部品生産である Prototec SA 、高級腕時計ブランドである Arnold&Son SAアーノルド&サン 、そして La Joux-Perret SAラ・ジュウ・ペレ を保有しており、2011年12月期の連結売上高は約28億円とされ、 此の全株式を約57億円で取得した、と言うものです。 ラ・ジュウ・ペレ、此の名が保有企業に含まれることこそが腕時計ファンの琴線に触れる部分であり、 例えばGQ JAPANには2012年8月3日の記事[※6]シチズンがラ・ジュー・ペレを買った ことが 時計業界的にはかなり大きなニュース であり、当年のバーゼルワールドに集う好事家の挙って話題にする処となった、 として取り上げられている訳です。

ラ・ジュー・ペレ社はクロノグラフ・ムーブメントのカスタマイズを得意としながらも 其の製品ポートフォリオにはベースムーブメントの改造から固有のムーブメントの開発迄と、 ムーブメントに関して包括的な技術力を有し、また同時に製品グレードとしても エントリーレベルからHaute Hologorie(高級時計製作)迄と、包括的守備範囲を担う能力を有し、 GQ JAPANには ムーブメント製造の第一人者である とされており、またシチズンリリースには ムーブメントの改造や複雑化の分野における有数の製造会社 、と其のムーブメント技術に於ける卓越性が両者に謳われ、 腕時計業界全体に其の存在感を示す腕時計関連企業であるのが窺えます。 ラ・ジュー・ペレ社が、ではGQ JAPANに以下の如く表現されるのは 腕時計業界にどの様な立ち位置であるのでしょうか。

  • 有力時計メーカーの多くをクライアントでとして擁す
  • ハイエンドブランドへ製品を供給する業界全体の革新的なメーカーとしての確たる評価
  • 付加価値の高い通好みの機構を搭載したい中堅メーカーに取って不可欠な存在
  • 同社製ムーブメントの搭載が其の儘セールストークにもなる

ムーブメントとは時を刻む時計の心臓部であり、 其の製造は専門的な技術、体制を必要とし、簡単に出来るものではありません。 ではムーブメントを作れない企業は腕時計を扱えないかと言えば然にあらず、 ムーブメントを自社製造しない腕時計メーカーなどに ビジネスとしてムーブメントを他社に供給する企業も出て来るのでした。 其の供給元の代表としてスイスメイドを名乗るのに欠かせないのがスウォッチグループ[K2] 傘下のETA社であり、その影響力の強さから2010年問題の震源ともなっていました。[K3] 此の供給を受けて腕時計の完成品にして世の中に提供するのがかたむき通信で扱った処ではLEGO[K4] であり、ガガミラノ[K5] であり、ムーブメントの供給者としての オリエント時計 があってこそ腕時計ベンチャーとして成立するコスタンテ[K6] がありました。 供給側にはETA以外にこのオリエントがあり、セイコー社もシチズン社も勿論、 ブランドとして SWISS MADEスイスメイド の表示が欲しい向きには ラ・ジュー・ペレ社が2010年問題もあり供給側として重要な地位を占めているのでした。 かたむき通信にも時折登場する腕時計関連語彙として、此の供給側の事業形態を ébaucheエボーシュ ビジネスと称しているのです。

エボーシュとはフランス語で下書き、草案、枠組みの意であり、 此れを腕時計の未完成のムーブメントに見立てて用いられているようです。 供給を受けて完成品の腕時計に仕立て上げ市場に送り出す企業を établisseurエタブリスール と称し、本記事に名の挙がるLEGOは純然たる冠ブランドとしても、 LEGOに近く思われるガガミラノなどが此れに相当するか否かは微妙な処にて、 此れ等端的な事例はさておき、此処等辺りのムーブメントに関する腕時計業界の関係は入り組んで、 だからこそ2010年問題も複雑な様相を呈したのでした。 嘗てはエボーシュを完成品に仕立てエタブリスールなどに供給するメーカーをサプライヤーと称し、 厳然たる棲み分けもあったのですが、徐々に職域は互いに蚕食され、 スウォッチ社はサプライヤーが純然たるエボーシュビジネスを営むETAのベースムーブメントを食い物にして 不当に高額な利益を上げていると考えているように見る向きもあったようです。 エボーシュは基本的には半完成品、未完成品のムーブメントを指し、 此れに独自のカスタマイズを施し複雑機構に迄仕立て上げるメーカーもあれば、 完成品のムーブメントを利用するばかりか、組み立てさえ外注に出してブランドのみ添えるメーカーもあり、 なかなかに把握は一筋縄ではいかず、ETA社でさえコピームーブメント製造の過去を持つとする向きもあり、 又此処に腕時計界の歴史も垣間見られれば 逆に腕時計マニアの心を擽る部分でもあるのかも知れません。

日本が世界に冠たる腕時計メーカーは無論技術力は高く、 ムーブメントから完成品迄手掛ける Manufactureマニュファクチュール である訳で、スウォッチ社などと同様エボーシュビジネスを手掛けるのは自然な流れですが、 特にシチズン社に於いては重要なビジネスとして成立してもおり、 其の外販ムーブメントはミヨタブランドとしても知られます。 日本の機械式腕時計に於いてはスイスの様にメーカーが夫々に独立して入り組んでもおらず セイコー、シチズンの2大メーカーとセイコーエプソン傘下のオリエントが先ず挙げられ集約され、 分かり易くもあるようで、其の中でスイスにおけるエボーシュビジネスと同義に モジュールビジネス と言う言葉を用いています。 シチズンはミヨタブランドでモジュールビジネスを営んでいる、 と言っても良いのかも知れません。 クォーツショック[K7] に因り8200番台を最後にクォーツムーブメントに譲っていた主要モジュールに於いて 30年振りに開発された機械式モジュールである 9015 ムーブメントについてはかたむき通信にも記事[K3] をものした処でした。

機械式ムーブメントのビジネス上に於ける位置付けが斯様に重要なものとなった折も折、 シチズン社がラ・ジュー・ペレ社を傘下に収めたのですから 腕時計ファンの話頭に上らぬ筈もありませんでした。 GQ JAPAN記事[※6] には現段階にては様々不明とのことで飽く迄推測ながらも 少なくともラ・ジュー・ペレ社製ムーブメントの安定供給は今後も保証されるであろう、 とされていますが、スイスメイドの看板を掲げるからには資本の関係もあり、 また従来関係性の薄かった日本とスイスの腕時計の技術に於いても交流が図られるのは必須となれば、 水面下であろうとも其の影響は少なくないものと考えられます。 例えばラ・ジュー・ペレ社は同じくサプライヤーの位置付けである Sellita Watch SAセリタ 社のムーブメントSW500をベースムーブメントとして採用するだけでなく その地板など主要パーツの生産も担っているのでした。

さてこのラ・ジュー・ペレ社については Chronos(日本版)2010年1月号 に興味深いインタビューが掲載されていました。 同社CEOの Frédéric Wengerフレデリック・ウェンガー 氏のもので、其の主張に些か反発する記者氏の感はあるものの其れだけで同氏が 2010年当時発表予定されていた新型となるベースムーブメントとクロノグラフムーブメントについて 説明の労を取る申し出を退けるものとはならない、とする実に興味深いものとなっています。

ウェンガー氏はMBA保有者で様々なM&Aに従事した後、 そのスキルも活かし実業家に転じたのでしょう、 2001年にラ・ジュー・ペレ社を買収したのでした。 ラ・ジュー・ペレ社は1985年創業と比較的歴史は浅く、 創業及び買収当時にも社名を Jaquet S.A.ジャケ と称し、ウェンガー氏買収後の2001年に名称変更、 ETA7750ムーブメントのモディフィケーションビジネスで業績を伸ばし、 インタビュー当時従業員数170名と成長を遂げていたのです。

ウェンガー氏がインタビュー中に語るラ・ジュー・ペレ社に於ける ピラミッドの各層に製品の存ずる品揃え構成にては 其の頂点にトゥールビヨンなどの複雑機構ムーブメント、 全体を支える最下層にはETAとセリタのベースムーブメントを用いた製品が存し、 中間層にこそ新型ムーブメントを位置付ける構想とされています。 記者氏の些か反感を匂わせる記述も此のムーブメントの価格には ETA社2892の3~4倍に値付けがなされるものの、 其れは6~7倍と主張する品質の定量化にこそあったのでしたが、 此れは即ち新型ムーブメントの位置付けの明確なものであることの証左でもあるでしょう。 ETA及びセリタのベースムーブメントを用いた製品とは一線を画すべきであり、 併せてウェンガー氏は新型ムーブメントを、 工業化された仕様ではない、と明言する処ともなる訳です。

大量生産の廉価品用、中間価格帯用、少量生産の高級品用と厳密に工作機械が振り分けられ、 アッセンブリーを待つトゥールビヨン用パーツが並んだキットは加圧して厳重に保管される一方に、 廉価品のパーツは埃除けも無しで無造作に並べられ指サックもなく触られる其の感覚を 此処にもインタビュー記者氏は些か疑義を発っしながらラ・ジュー・ペレ社の特徴として挙げ、 ウェンガー氏の生産に対する合理化の姿勢を示すものであり、 氏はピラミッドの夫夫に位置する製品群の値付けの正当性を裏付けるものとします。 此の如き辣腕のウェンガー氏に率いられたラ・ジュー・ペレ社は拡張を重ね 2006年には約4,700平米の本社屋を購入、インタビュー2010年当時で年産約15万個を 市場に供給していました。 極めて穿った見方をすれば、 2010年問題を惹起したスウォッチグループのベースムーブメント、キット供給制限宣言は、 鳶に油揚げを攫われるのに憤った斯界の旗手の鳶に対する頗る無慈悲な振る舞いであり、 鳶の代表たるラ・ジュー・ペレ社がスイス腕時計界に居辛くなる様相を呈せば インタビュー記事に記者氏の繭を薄っすらと顰めさせ、ETA社への語気鋭い発言の垣間見られ、 ラ・ジュー・ペレ社をマーケティングとは対極にある真の技術を売る会社と誇り高く宣言し、 また写真を見るからに失礼ながら癇の強く見受けられる代表氏に率いられ 業を煮やした同社が遠く極東の雄たるシチズン社と手を組むのは全く以て不思議のない処です。

追記1(2019年8月31日)

1918年に 尚工舎時計研究所 として創業し、1930年5月に会社組織となった「シチズン時計株式会社」は、2007年4月、 純粋持株会社体制移行で社名を「シチズンホールディングス株式会社」に変更しており、 本記事配信時は其の事業子会社としての非上場の「シチズン時計株式会社」でしたが、 2016年10月に「シチズンホールディングス株式会社」の「シチズン時計株式会社」及び「シチズンビジネスエキスパート株式会社」の吸収合併、改組を以て、 社名を再び「シチズン時計株式会社」に復しました。 現在、 シチズンシチズン時計株式会社 の腕時計ブランドの扱いとなっています。

此れとは別に1959年に腕時計の組立工場として創業した「御代田精密株式会社」は、 1991年に「ミヨタ株式会社」に、2005年には「シチズンミヨタ株式会社」に商号を変更しました。 其の後、2008年に「シチズンミヨタ株式会社」と「シチズンファインテック株式会社」を合併して「シチズンファインテックミヨタ株式会社」とし、 2015年には「シチズンファインテックミヨタ株式会社」と「シチズンセイミツ株式会社」が合併して、現在 シチズンファインデバイス株式会社 となっていますが、事業内容は、自動車部品、水晶振動子、水晶発振器及び水晶片、映像デバイス、時計部品、薄膜サブマウント、セラミックス部品、光通信用部品、産業用機械装置、精密計測器、小型精密金属加工部品、とされています。 ミヨタブランドのムーブメントは「シチズン時計株式会社」の ムーブメント事業部 が担っており、公式webサイト MIYOTA MOVEMENTミヨタムーブメント が用意されています。

使用写真
  1. Miyota 8217( photo credit: Technewatches via Flickr cc) Miyota 8217, 11½ lines by 5.67mm, 21'600 alternances per hour (3 Hz), uni-directional self-winding, 21 jewels, Citizen's proprietary Parashock system, power reserve over 40 hours
かたむき通信参照記事(K)
  1. 第46回衆議院議員総選挙とWeb認識についての一考察(2012年12月16日)
  2. Swatch(スウォッチ)の開発、誕生とアーンスト・トムケ氏とニコラス.G.ハイエック氏(2012年5月8日)
  3. 30年の時を越えて蘇ったミヨタ・キャリバー9015ムーブメントと2010年問題(2013年3月18日)
  4. LEGO腕時計の世界(2013年3月6日)/li>
  5. 腕時計界にガガミラノは定番と成るか一時の流行に終わるか(2012年11月10日)
  6. 時計企画室コスタンテ~腕時計分野のメイカーズの代表的存在(2013年1月14日)
  7. 世界初クウォーツムーブメント35SQ~世界にショックを与え日本を一躍腕時計界の中心に至らしめたセイコーアストロン(2012年8月25日)
参考URL(※)
  1. 日本企業によるスイス企業買収の増加の理由を専門家に聞いた。(swissinfo.ch:2012年6月15日)
  2. シチズングループについて:CSR[環境・社会活動](シチズンホールディングス株式会社)
  3. Japan's Citizen makes time for Prothor purchase(The Deal Pipeline:2012年3月5日:2019年8月31日)
  4. シチズン、スイスの腕時計会社を買収 機械式駆動装置取り込む(日本経済新聞:2012年3月5日)
  5. シチズン 高級腕時計の親会社57億円で買収(スポニチ Sponichi Annex:2012年3月5日:2019年8月31日現在記事削除確認)
  6. スイス時計業界を巻き込む、シチズンの世界戦略が始まる(GQ JAPAN:2012年8月3日:2019年8月31日現在記事削除確認)
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