畢竟何だってご本人の言い分を直接聞くのが最もためになるってものです。
今や世界一の時価総額となったアップル社の創業者の
今の時代はインターネットが発達してYouTubeなどに動画も配信されますから
ジョブズ氏などに於いては大学に於ける有名なスピーチを閲覧、直接の言葉を聞くのも一つの手ですし、
最善の手法は分かれどもなかなかに人が話を聞きたいと願うほどの御仁は忙しいのは無論で 直接文章を他人のためにものす機会もそうはあるものではありません。 Acenumber Technical Issues ブログの2008年11月10日の記事 自働化とジャスト・イン・タイム に紹介する トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして などはその稀有な例であり、著者はトヨタ自工元副社長の故 大野耐一 氏であって現在のトヨタを世界に冠たる企業に押上げた工場現場生産の叩き上げの御仁で 看板 に 行灯 、 ジャスト・イン・タイム と正にトヨタ 改善 の立役者その人なのであって一読の価値を充分有すものです。
その大野耐一氏に引けを取らない自著の持ち主が誰あろう 本田宗一郎 氏(以下、著者)にてその上梓せし書物こそ スピードに生きる (以下、本書)でありました。 大野氏の書もその重要さを鑑みられ復刻されたものですが、 此方も負けず劣らず日本近代史に重要な人物の直接の手になるものですから、 一度1961年に実業之日本社から刊行されたものを世紀を跨いだ2006年に 明治39年(1906年)生まれの著者の生誕100年を記念して復刊された一冊です。 その構成は3部に分かれており以下の如くなっています。
構成の後ろに括弧付けで記したのは それぞれ一言にまとめるとすればこの言葉であろうと考えたものです。 第1部、2部於いては題目に含まれるものの 第3部は然にあらずしてなかなか面白いものと自負しますが如何でしょう。 そしてこの構成それぞれをまとめる言葉に象徴される考え方はその部に留まらず 本書に通底しているものでもあります。 この一本筋の通った著者の思想、哲学に著者独特の語り口も相俟って 本書は気付けば読み通してしまっている面白さに溢れているのでした。
その第1部こそ、これほど読んで楽しい自伝のないもので 自身の前半生が自由闊達、不羈奔放に自らの反省など交えながらべらんめぇ口調で語られる 痛快無比な物語となっており、当部だけ読んでも読者を満足せしめるものとなっているそれは、 恐らくは、のみ刊行されて然るべきものとさえ思われます。 先ずはこの部だけで本書を手にする価値があるでしょう。 その破天荒な半生は読む者の胸躍らせる冒険譚であり 大人のための絵の無い絵本とでも評せる胸のすくお話しです。
その第1部に象徴されると本記事でした字句 スピード は著者の生涯通して追い求めたものでありその考え方の根本、哲学でした。 現在の静岡県天竜市に鍛冶屋の息子として生を享けた著者がものづくりに進むのは自然であったようです。 その作るものがエンジンであったのは正しく時代の要請、スピードにあったでしょう。 小学校4年生の自分に著者の暮らす村を青白い煙を吐きながら悪魔の如く通過した自動車は 著者を魅惑し完全に魂を奪い、以降の全人生を掛けさせるものとなりました。
小学校の尋常科、高等科を終えた著者は直ぐ東京本郷湯島の アート商会 なる自動車修理工場に丁稚奉公します。 子守に辟易しながらも、 好きこそものの上手なれ、とばかり瞬く間に仕事を身に付け始めた著者を襲ったのは 大正12年(1923年)9月1日の関東大震災でした。 しかしこの歴史に残る大震災に感謝するほどその余波の(ドサクサの)中で 自動車修理の腕前を上げたというのですから流石逞しいものです。 そうこして6年間を東京に過ごした著者は22歳の春に暖簾分けを受け アート商会浜松支店を故郷に開店、一本立ちしたのでした。
当時から創意工夫に優れた著者は当時木製が主流だったスポークを 鉄で特許取得、製造し月に千円と言う大儲けをしたのが25歳の頃、 若いだけあって芸者を上げて騒いだ後の酔っ払い運転に天竜川に車ごと飛び込む 今では考えられないのどかな当時ならではの失態を演じたりもしましたが、 業績は伸び50名の社員を抱えるようになったと思えば それをすっぱりと止めて畳んでしまうのは挑戦心の塊のような著者の真骨頂です。
降ろしたアート商会浜松支店の看板を 東海精機株式会社 と掲げ替え自動車修理からピストンリング製造に切り替えたのはこのときで、 反対する重役に暗礁に乗り上げたこの事業転換で罹った顔面神経痛が 説得がなるとすっかり治ってしまったと言うのですから余程挑戦したかったのでしょう。 しかしこの事業は一筋縄では行きませんでした。 理論の裏付けが足りないと現在の静大工学部、当時の浜松高等工業学校に 怪しい薹の立った生徒として通い、免状が欲しくて勉強しているんじゃない、 と試験も碌スッポ受けないで退学となれども確り実践に必要な理論は身に付けた、 と言う有名なエピソードはこの29歳の頃のことでした。 それでも学問の重要性を身を以て知った著者は、 学問と商売を割り切っている人も居て一理あるけれども 学問が根底にない商売は一種の投機事業みたいなもので 真の商売を味わえないだろうと言及するのでした。
無論商売に精を出すとは言えスピード狂たる本分は常に忘れることは無く 自家製に組み上げたエンジン持参で全国のレースに参戦しては勝ち負けを繰り返し 遂には命を失い掛けて生き延びれば、 人間は容易に死にはしないものだな、 と変に感心する始末、この顛末もしかし死に掛けた自らが優勝トロフィーを勝ち取ったと 誇らしげに書いて締めるのはスピード狂の面目躍如でしょう。 馬鹿は死んだら直るかも知れませんが、スピード狂は死んでも直らないと言った塩梅です。
そうこうする内に日本は敗戦し戦争体勢の東海精機に千人程の従業員も 散り散りとなった内残った300人程には思想的に嫌気のさす者も居り、 資本の入ったトヨタ出向の技術素人の重役とは折り合い悪く、再び畳むこととなるのですが、 何しろ当人は技術以外に生きる道は無いと思えるのが全く羨ましい処、 終戦から一年も経って事情も幾分変じれば、 遂に昭和21年 本田技術研究所 を設立したのでした。 トヨタもスズキも当初は手掛けた如くに 織機の産地たる浜松にその手の機械を拵えようかとも思いますが 戦時中、軍使用の通信機用小型エンジンを自転車に取り付けた地元で言う ポンポン が大好評だったのを思い出し、エンジンも尽きれば自ら自家製エンジンを製造するに思い至ります。 さて好評裡に推移した商売に遂に自家製オートバイを製造するのは自然の成り行き、 敗戦に日本の技術の遅れを痛感した著者は一にも技術、二にも技術と大気炎を上げれば 周囲に夢の如く言われて、これが新設計オートバイ ドリーム 号の命名となった由。
昭和27年には150に余る発明特許に紫綬褒章を受ければその受章の席上 皇族殿下に発明工夫の苦しかろう旨問われて、 全く恋愛と同じです、 と応えるのは如何にも著者らしいエピソードを交えつつ、 昭和32年にはマン島レースを視察、高慢の鼻を圧し折られたと言いながら なお闘志を燃やし世界に飛躍するホンダの原点の核ともなる意識が醸成されたのです。 功成り名遂げるにもいつまでもスピードへの夢を夢見る著者の半生記が第1部なのでした。 スピードと言う蓋し著者の本能に近い部分の生態が存分に顕れた部と言えるでしょう。
京セラを作り上げKDDIを育成しJALをもV字回復せしめた 稲盛 氏[K1] は嘗て著者のセミナーに感銘を受けた旨、何某かの書籍に記されていました。 温泉に浸かりお膳の据えられ浴衣に身を包み寛いで著者の登場を待ち受ける受講者面々の前に 油塗れの作業着のまま憮然と登場して 商売を上手く行かせたいならこんな処でくだらん話を聞いていないで直ぐに戻って精を出せ、 と一喝、迷惑気に立ち去った著者に氏は非常に感銘を受け京セラの経営に活かした、 とあったように記憶します。 正しくその件は本書にも本の少し掻い摘んで記される処で、 高い会費を集めて温泉地へ人を呼び豪勢な旅館でどうしたこうしたと一席打てば 聞く方でも鉛筆を舐め々々神妙にメモを取るが宴会でも始めれば全て忘れてしまう、 とあるのは多くこの如き嚆矢に呼ばれて辟易もしたのかも知れません。 そんなセミナーにも受講生に稲盛氏の如き御仁があれば無駄ではなかった訳です。
さて斯くの如き痛快活劇半生を辿った著者の哲学、考え方が第2部、第3部には存分に記されますが、 氏の如き名経営者ならねば多少耳に痛痒を感じる部分も多々あるのを覚悟すべきでしょう。 この第2部、第3部についてはかたむき通信にまた 稿を改め後編として記したく予定しています。
追記(2012年12月12日)
本書評記事の後編にあたる 本田宗一郎スピードに生きる~書評後編~俺の考え方 を配信しました。
かたむき通信参照記事(K)- 稲盛和夫氏主導JALの奇跡のV字回復再上場とLCCスカイマークの挑発的サービスコンセプト(2012年7月4日)