信長の戦国軍事学~書評7~鉄甲船本願寺の補給路を断つ

稀代の英雄織田信長をして天才足らしめるとされる通説は数多く世に流通し その一つに 鉄甲船 があるのは広く周知される処でしょう。 史上に初めて姿を現した鉄の鎧を纏った軍艦は時代を隔絶する空前絶後の発明だったと言うものです。 この新兵器を以て織田軍は一度は敗れた毛利水軍に 再戦を期し遂には勝利を捥ぎ取り石山本願寺を降伏せしめたのでした。

しかしこの鉄甲船が本当に信長の考案になる新発明であったのか、 疑義を発っしたのは本記事末尾に記す一連の書評記事の披見本たる 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) (以下、本書)をものした 藤本正行 氏(以下、著者) です。 太田牛一の代表作 信長公記 を丹念に読み解いて数々の定説を覆したその手法を当該定説にも適用しようと試みたのが 本書第6章 石山本願寺攻め―「鉄甲船」建造の舞台裏 になります。

bridge and boat

さて巷間広く流布する鉄甲船の出所は何処でしょうか。 本書の例に依って信長公記を見てみればどうやら其処には特別な記述はないようです。 では矢張り桶狭間の奇襲や墨俣一夜城のように鉄甲船は無かったのでしょうか。 そうでもありません。 記述は唯一当時の一級史料でもある 多聞院日記 に有りました。 奈良興福寺多聞院々主の日記でありその天正6年(1578年)7月20日の条に記される、 以下に記すもので実に多くの示唆に富む一文となっています。

堺浦へ近日伊勢より大船調い付き了。 人数五千程のる。 横へ七間、竪へ十二、三間もこれ在り。 鉄の船なり。 鉄砲とをらぬ用意、事々敷儀なり。 大坂へ取より通路とむへき用と云々。

同様に本書ご本尊たる信長公記の同船に関する記述を見れば その大きさこそ長さ十八間、横六間と言及されていますが、 丈夫に作り立て とこそ述べ鉄の装甲については何も触れられていません。 例に依ってその装備など数字を以て詳らかにされるのは太田牛一ならではで信用の於けるものです。 従って多聞院日記と船の大きさについて異なる処ですが、 同時代の大型船の寸法相場としては山内一豊とその与力の朱印状追而書から 信長公記のものが妥当ですし牛一の書き様も実見に依るものだろう断定的なものとなっています。 更に遡ること天正元年の記述には琵琶湖のその大きさ三十間に及ぶ大型船記述もあり、 決して所謂鉄甲船の十八間は大き過ぎるものでもありません。

多聞院日記の大きさが妥当ではないとして記事其のものも疑われるかと言えば然にあらず、 直接見聞きする立場にある太田牛一のものと又聞きのそれでは自ずから性質は異なってくるからです。 当時急速に普及した火器への用意の大仰さに驚きの余り 軍事の専門家には当然として触れられる程のものでもない装甲について 言及が有っても不思議ではありませんしそう考えた方が自然でもあるでしょう。 すると胡散臭げな歴史家が信長を仰ぎ立てる鉄装甲が 天才のみに考案し得る新発明だったとする主張が怪しいものとなって来るようです。

著者は鉄板の装甲の登場は自然の成り行きとし、 文禄の役の際の鉄板の供出命令などに触れ、 その所謂鉄甲船への実装を船体の限られた部分、特に銃手が配置される箇所に重点的に施し 銃手の甲冑を不要とし安心を齎し射撃精度向上を狙ったものと推測します。 毛利水軍に天正4年の第1次木津川海戦で痛い目を被った 焙烙火矢への準備としてはそれを用いられる距離を想定したのでは 銃手をそのために配備した信長公記や宣教師オルガンチノのフロイス宛の報告書に見える 多数の大鉄砲の意味がなくなるもので可能性は薄いものとするのは肯ける処でしょう。

では第2次木津川口海戦に織田軍を大勝せしめた要因は 偉大なる新兵器鉄甲船ならぬ何であったのか。 著者は圧倒的な物量を集中的に投入した戦略であったと結論付けます。 敵の平凡な戦術に対抗するに平凡な戦術を以てし、 然らば後は物量が勝敗を決します。 戦争に浪漫を求める向きには不満が残るでしょうが極めて妥当な見解であると考えます。

天正4年(1576年)7月、織田領地への橋頭堡本願寺に兵糧を運び入れんとする毛利水軍に 木津川河口に散々に打ち破られ永禄11年(1567年)以降には初めて自らの包囲網を突破され、 桶狭間以降、劣る兵力で敵に対峙しは決してしなかった織田信長は 水軍に於いてその物量が毛利に自軍が劣るのを忽ち理解しました。 反省、検討を重ねた結果として大量の物量作戦は水軍に適用されたのでした。 その要素の一つが所謂鉄甲船であったのです。

鉄甲船の有ったのは間違いないでしょう。 重心の上がらざるを得ない構造に劣る機動性も著者はその目的の限定されれば問題無しとします。 その限定的な目的とは 水上要塞 です。 木津川口の防衛線の砦として機能させるものとして鉄甲船があったのは 実見を以てものされた信長公記にもオルガンチノ報告書にも明らかですし、 それは極めて示唆深いとした上に記した多聞院日記にも言及されていました。 著者は即ち鉄甲船は大阪湾の奥と言う狭い水域で機動性を欠いた敵の補給部隊を待ち伏せると言う 限られた目的のために建造された、と本書に述べる処です。

さて従って唯になすべきことをなすべくして勝利を得た信長に 鉄甲船に於いて天才性は伺えないものか、 と言えば此れは私見ですが、陸上の戦術を水上に転用する処にこそ其れが伺えるように考えます。 本書にも合戦の惹起される要因に互いの敵地に於ける橋頭堡の確保と その維持のための兵站確保が屡原因となった旨、挙げられています。 桶狭間も長篠もそうでした。 石山本願寺合戦も構造は同じです。 しかしその補給路が水上であったことが他と大きく異なるのでした。 並みには此処の転用が容易ではないように考え、 従ってこそ信長公記には 海上つまりつまりに大船をかけ、昼夜警護仕り候の間、海路とまり堪へ難く到の由に候。 と、オルガンチノ報告書には 大坂の河口にこれを置き、援兵または糧食を搭載せる船の入港を阻止せんがためにして、 これに依りて大坂の市は滅亡すべしと思わる。 と、その目的が明確に、そして幾分の驚きを以て鉄甲より特筆されるべく 扱われているのであると考えるものです。

使用写真
  1. bridge and boat( photo credit: Atsuhiko Takagi via Flickr cc
信長の戦国軍事学書評記事一覧(※)
  1. 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
  2. 織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日)
  3. 墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
  4. 異例戦国大名姉川に正面衝突す(2012年12月3日)
  5. 攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺(2012年12月9日)
  6. 新戦術は長篠合戦にありしか(2012年12月24日)
  7. 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
  8. 本能寺と甲州武田氏の滅亡(2013年1月7日)
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