壊滅的破壊の筈の聚楽第跡地に石垣見付かり現地説明会が開催さる

世の楽しみを此処に総てあつめたとして 聚楽第 と命名されたとも聞き及びますが定説は無く、関白 豊臣秀吉 自らの命名だともされる最高権力者の住まいでもあり、 政務を執り行う政庁としても機能した 時の中心たる建造物について、 京都府埋蔵文化財調査研究センターが2012年12月21日に 発掘調査の成果を報告しました。 完全にこの世から抹消すべく完膚なき迄に打ち壊されたと謂われる 幻の聚楽第の遺構である石垣が発見されたと言うものです。

京都市上京区須浜町京都府警西陣待機宿舎C棟 大きな地図で見る

発掘調査は京都府警察本部西陣待機宿舎建設工事に伴い実施されたもので Googleマップのストリートビューを見てみれば右の写真の如き 何の変哲も無い現代の建物が3棟公園に隣接して建っている場所なのに驚かされます。 確かに発掘現場の住所も建物の記載もその下の地図に示す通りの場所ですが、 古の京都のことですから当然とは言え、 矢張り日本市場稀な立身出世譚の主人公の豪華極まりない大邸宅、 そしてそれは平安宮の大内裏跡に造営されたとすれば其れ等伝説上の建造物とは 結び付きがたい普通の暮らしが其処には今在ったのでした。

聚楽第の施主たる秀吉がかたむき通信に登場するのは その名前こそ時折見えども戦国3傑の中には少なく、 主には 坂口安吾安吾史譚―七つの人生について に収められたる物語の四つ目、戦国武将 小西行長 を配下に持つ人物として2012年10月24日の記事[K1] に、最も目立った取り扱いは2012年11月23日の記事[K2]藤本正行 氏著す処の 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) の第2章 美濃攻め―墨俣一夜城は実在したか に於ける墨俣城に関連してのものでしたが、 秀吉の出世譚として有名なこの一夜城築城物語はなかった、 と言う内容に終始し、些か出番としては物足りないものでした。 しかし今回のお話はその存在は確実なお城である聚楽第にて、 その遺構たる石垣が実際に発見された、と言う情報です。

屡関連ニュースの記載するその仕事の速さに驚かされる Wikipediaにしても今回の情報は2012年12月22日の本日現在、聚楽第項目[※1] 未だ反映されておらず、遺構の発見もめぼしいものはないため 徹底的に破却され謎の多い建造物として扱われている状況が垣間見えます。

京都市上京区須浜町京都府警西陣待機宿舎C棟    大きな地図で見る

今回の発見はこの謎めく聚楽第の遺構としては過去最大規模のもので 過去の発掘調査との位置関係から鑑みて内堀に面する石垣が 東西方向へ32mもの長さ伸びているものだといいます。 更にはこれは今回の調査地を超えて外へと伸びているのは 当時の最大権力者の邸宅としての規模を伺わせるものでしょう。 その構築推定年代は使用されている石材や石積みの特徴から 確り安土桃山時代ものと見て良さそうであるとも伝えます。

この貴重な発見、内容公表を為した 京都府埋蔵文化財調査研究センター からはまたその重要性を鑑み一般への現地説明会を開催する旨も案内[※2] が配信されています。 その日付は明後日の天皇誕生日の振替休日となる月曜日、2012年12月24日ですから お勤めの向きも行き易いものとなるかも知れません。 現地説明会ですので場所は本記事右上に記した地図にて 時間は午前10時から午後3時迄、とされています。

1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成の 屏風図などからその当世の富を集めた天下一の豪勢さが伺われる聚楽第は 1595年(文禄4年)7月の秀次失脚の翌月から破却され 即ち拵えて僅か8年で壊されることとなった訳で その遺構の発見が5世紀も隔てた後の世であるほどの灰燼に帰せば、 これもまた露と落ち露と消えた夢に殉じた建造物であったのかも知れません。

かたむき通信参照記事(K)
  1. 小西行長~安吾史譚書評~大物外交官を史上に炙り出す(2012年10月24日)
  2. 信長の戦国軍事学~書評3~墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
  3. 業平橋駅からとうきょうスカイツリー駅への駅名変更とウィキペディアの早い仕事(2012年3月18日)
参考URL(※)
  1. 聚楽第(Wikipedia)
  2. 聚楽第跡現地説明会のご案内(京都府埋蔵文化財調査研究センター:2012年12月21日)
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