2016年11月17日木曜日

武田斥候笹田源吾と遠州大念仏

復元木原一里塚
復元木原一里塚

今は袋井市に編入されている遠州 木原きはら は東海道五十三次の 袋井宿 迄十六町、 見附宿 迄一里六町の東海道沿いに位置し 木原一里塚 は江戸から数えて六十一里目の一里塚として道行く人に用意されていました。 木原のほぼ中央には 許禰こね 神社が祀られ元を 木原権現 と称した此の社は一説には式内社でもある古代の許禰神社であったとも言われています。 現在では宅地化も進む此の辺り一帯は戦国時代には一面が田畑にて 徳川対武田の 三方ヶ原の合戦 の前哨戦が行われた場所でもあり 木原畷古戦場 と通称されています。

元亀3年(1572)遠州侵攻に当たり信玄を大将とする武田軍本隊は遠州三倉から南下、 中遠の徳川方城塞群を威圧して進軍しました。 武田、徳川の両雄に挟まれた中小勢力は生き残りを図るべく其々に模索した道を実践し 或る者は大将のみ遁走せしめ降り、或る者は戦い落とされ、或る者は敵勢が行き過ぎる迄屈強に抵抗しました。 信玄としては威武を示せば次の機会には皆此方に靡くであろうという勘定もあったかも知れません、 無理強いして城を落とす必要もなく緩々と遠州のど真ん中を行軍したのでした。 勿論其の報は徳川方にも届いています。 家康は我が領土を好き勝ってに往来されてはならじと自らも軍を率いて出陣するも武田の雲霞の如き大軍に時を得ずと様子見に徹しますが 久能城 を通過してのち方向を西に転じた武田軍と此処木原畷で小競り合いが勃発したのでした。 徳川方内藤隊が仕掛けた小規模な戦いではありましたが衆寡敵せず武田軍に一蹴されて撤退した徳川方には苦々しい地ともなったでしょう。 数ヶ月後の三方ヶ原の合戦に突撃を決行した家康には此の時の無念が心底に残っていたのかも知れません。

木原許禰神社
木原許禰神社

従って歴史勉強会の一行は三方ヶ原合戦に於ける武田軍の遠江侵攻路を辿るべく企図して 2016年10月15日に此の木原畷に到来したのでした。 古戦場の碑も備えられた此処許禰神社を拝観するにたまたま翌々週に 袋井宿開設四百年祭準備で参詣された当地自治会長さんに短い間でしたが話を伺う機会を得たのです。

2016年9月27日火曜日

Apple Watchに見るアップル社のアイデンティティ足る角丸

ウェアラブル・コンピュータの筆頭と目されたスマートウォッチも漸く市民権を得てきた感があります。 世にはGoogle社が提供するAndroidにOSを依存する多くのスマートウォッチが出て来るようになりました。 其れ等スマートウォッチのデザインを見るにつけ些か感じられる部分もあります。 其れ等の多くが丸形のケースデザインに身を包み 見るからに伝統的な機械式腕時計のデザインを踏襲しているのが感じられるのです。 腕時計は長い歴史を持ち中にも高級腕時計はスイス国経済を支えるほどの産業でもありますからデザイン的に洗練されているのは論を俟ちませんが しかしスマートウォッチとして見れば同時に良くある感が否めませんし悪く言えばデザイン的模倣ともいえるでしょう。 其処には 、己、所謂 アイデンティティ が感じられないのが物足りなくも思えます。

機械式腕時計が其の機能を実現する構造から基本的に正円デザインが決定されているのに対し 実際ウェアラブル・コンピュータと目されるスマートウォッチはデザインに於いては 正円に拘る必要もない自由を手に入れている筈であるにも関わらず 機械式腕時計のデザインを踏襲するのは折角手に入れた自由を自ら放棄しているようなものです。 蓋し自由の行使には束縛の元にあるより大きな労力を必要とするのでしょう。 此の一見効率的な経済行為がAndroidスマートウォッチの魅力を一つ落としているような気がしないでもありません。

一方スマートウォッチの代表足る可く鳴り物入りで登場したアップル社の アップルウオッチApple Watch は今如何なる状況にあるでしょうか。 本ブログにもApple Watchが iWatch と呼び親しまれた発表以前から注目して以下の如き記事を配信して来ました。

2016年9月18日日曜日

日の丸弁当少考

日の丸弁当 をキーワードに少し近現代の日本の産業と食事を考えてみたく思いものしたのが本記事になります。

五社公園の日の丸弁当の考案者男爵前田正名君碑
五社公園の日の丸弁当の考案者男爵前田正名君碑

浜松市の中央部、出世城の異名をとる浜松城にもほど近い 利町とぎまち の五社公園には東南隅に記念碑が3基設置されています。 其の内の右の石碑は大正12年(1923)8月に建立された 男爵前田正名君碑 で明治期の経済官僚、産業運動指導者である前田正名男爵(嘉永3年1850〜大正10年1921)の顕彰碑とされます。 浜松市が2001年に刊行した 浜松市石造文化財所在目録 の14頁、17項 利町五社公園 の3番には此の顕彰碑についても記されていますので下に引用しましょう。

公爵松方正義の題額「男爵前田正名君碑」を掲げる。農商務省次官などを務めて近代日本の殖産興業に尽力した前田正名を顕彰する。碑文は平山成信書。中邨なかむら利隆書。五二会遠江本部が建碑を企て浜松市ほか9団体が賛助して建てた。公爵松方正義が題額を書き五二会遠江支部が建碑を企て、浜松市他9団体が賛助して建立された。

2016年9月6日火曜日

神原町の最後の猪堤

神原町かみはらちょう は静岡県浜松市の西区に区分される町です。 浜名湖の東、佐鳴湖の西に位置し佐鳴湖の東に位置する浜松城下町を通る主要陸路は佐鳴湖と浜名湖を避けるように分かれて 南に東海道、北に本坂街道が通りますから勢い神原町を避けるような配置とならざるを得ず 神原町を含む、神ヶ谷町、大久保町、西山町の地域を総称として今も通用する明治に作られた 神久呂 地区は昔より隠れの里とも呼ばれてきました。 神ヶ谷町に鎮座する式内社 賀久留神社 の社名の由来が隠れにあるともされる所以です。 神久呂公民館の発行した神久呂地域史の書かれる書籍 わがまち文化誌「ふるさと神久呂」 (以降ふるさと神久呂)によれば神久呂村の頃、神ヶ谷区中部落小字 奥新田 と称した地域が昭和23年に当地の一部であった通称 原山 を襲い神ヶ谷区神原部落を組織したのだそうです。 その後昭和30年浜松市へ合併の際 神原町 が正式に開始されました。

神原町公会堂
神原町公会堂

2016年7月31日日曜日

歴史に於ける公園の役割少考

公園と言うのはなかなか守備範囲が広く 国土交通省都市局公園緑地景観課の述べる処に従えば大きくは 自然公園法に依拠する 地域制公園営造物公園 に分かれ、後者の営造物公園は 国民公園 及び都市公園法に依拠する 都市公園 、そして その他の公園 に分類されるのだそうです。 同課では公園は以下に示す如く分類されています。 〔※1〕

  • 住区基幹公園
    • 街区公園
    • 近隣公園
    • 地区公園
  • 都市基幹公園
    • 総合公園
    • 運動公園
  • 大規模公園
    • 広域公園
    • レクリエーション都市
  • 国営公園
  • 緩衝緑地等
    • 特殊公園
      • 風致公園
      • 動植物公園
      • 歴史公園
      • 墓園等
    • 緩衝緑地
    • 都市緑地
    • 緑道

以上様々分類された中にも今回考えたいのは 住区基幹公園 中の地区公園では少々広過ぎるので前二者の 街区公園近隣公園 です。 一般にも公園と言われて思い起こすのは此の 1/4haから2ha程度の広さのものではないでしょうか。 気持ちばかりの遊具や砂場、ベンチがあって芝生が少々張り巡らされているような、 中にはベンチ一つさえ設けられていない只の空き地を思い起こさせるような 申し訳程度に公園名の看板が備えられるような規模感の公園です。 英語では例えばセントラルパークのような PARK に非ずして正しく児童遊園的な playground とでも言えば意は通じるでしょうか。 公園自体が散歩のコースに成り得るものではなく公園は散歩コースの一部に立ち寄る程の規模感です。 此れを本記事では 公園 と呼びます。